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妙円寺(みょうえんじ)は、東京都台東区谷中にある日蓮宗の寺院。山号は円住山。旧本山は本所法恩寺、親師法縁。伝日法作の日蓮聖人像を祀る。
『太平記』の各所に足利尊氏方の武将として見え、中でも巻38諸国宮方蜂起の事に、貞治2年(1363年)、備後宮内で足利直冬の軍勢を撃退したことが載せられている。この功で尊氏より備中国の守護職を拝領し、貞治4年(1365年)まで務めている。『備後古城記』などに拠れば広島県福山市新市町の亀寿山城主であったという。子息の氏信は上野介に任官して室町幕府に仕えた。以後、その子孫は「宮上野介家」として戦国時代に至るまで備後国で大きな勢力を持った。
北海道北東部の知床半島中央に位置する羅臼岳の西側斜面に源を発し西へ流れ、オホーツク海に注ぐ。源流の一つは羅臼岳登山道沿いにある名水「弥三吉水」である(標高900m付近)。本流の岩尾別川の中流には、岩尾別温泉があり、知床横断道路(国道334号)と並行する支流の赤イ川の流域には、日本有数規模の褐鉄鉱の巨大な露頭が存在する。
アイヌ語で「硫黄が流れる川」という意味を持つ。このため原語に近いイワウベツ川として標記されることもある。
昭和初期から漁業が営まれ、昭和40年代以降は観光開発が進められている。河口付近に位置するサケマス孵化場は、捕獲量、放流量で日本一を記録したことがあり、石碑が建立されている。下流域には知床五湖へ通ずる道道橋が架けられ、中流域には岩尾別温泉と、上流域には羅臼岳登山道があり、観光資源に富んでいる。
支流の「赤イ川」では、昭和30年代まで鉄鉱石の採掘が行われたが、輸入鉱石の増加により採算が悪化し早々に撤退している。
流域の全域が知床国立公園に指定され、川周辺ではエゾシカやヒグマなどの大型哺乳類、エゾシマフクロウなどの猛禽類が棲息するなど、豊かな自然環境が形成されている。
秋に遡上するシロザケ、カラフトマスは全量、河口付近のサケマス孵化場にて捕獲される。一部については、サケマス孵化場から上流に再放流されるが、これを目当てにヒグマが出現するようになり、近年、それを追いかけるようにカメラマンが詰めかけるようになった。川と並行する町道には、ヒグマを撮影するための望遠レンズの砲列が並ぶこともある。撮影競争が過熱し、不測の事態も想定されることから、2004年にはクマよけのための電気柵が設置された。
岩尾別川流域の地質は、源流が活火山である羅臼岳であるため脆く、しばしば土砂災害が発生している。1980年代には土石流の流下により岩尾別温泉に至る町道の大部分が流出し、温泉の宿泊客が孤立する騒ぎとなった。
『常山紀談』(じょうざんきだん)は、江戸時代中期に成立した逸話集。簡潔な和文で書かれており、本文25巻、拾遺4巻、それと同じ内容を持った付録というべき「雨夜燈」1巻よりなっている。著者は備前岡山藩主池田氏に仕えた徂徠学派の儒学者・湯浅常山。
原形(自序)は1739年(元文4年)成立。完成は1770年(明和7年)とされる。戦国武将の逸話470条を収録。いわゆる勧善懲悪ではなく、複数の有名な逸話を短く編集して主題ごとに一つの条にまとめて、評論を加えずに淡々としるしている。
草稿(自序)の完成は比較的早期に行われたが師匠である太宰春台の意見を入れて徹底的な再改稿を行い30年かけて満足のいく形に完成させたといわれる。常山は1781年(天明元年)に74歳で死去し、本書の版本での初刊は死後20年後のことであった。『名将言行録』(江戸末期・岡谷繁実著)の原形(模範)ともいえる。
逸話集の形体は、事実を重視しようとした徂徠学派の特徴を示している一方で、一つの条の中に出典の異なる話が雑然と行を続けて書かれていて玉石混淆で、信憑性には問題があり、史実性よりも有名な話や痛快、豪快な逸話が好んで収録された。このために本書は史書というよりも、教訓集や説話集のようになっており、明治大正期の教科書には良く取り上げられていた。
史料が乏しくはっきりしないが、桓武平氏繁盛流大掾氏一門伊佐氏の庶家の鎮西平氏(大掾氏族である多気氏の庶家で、同じく常陸国伊佐郡を本貫とした一族で、後に刀伊の入寇で活躍し肥前国を賜った伊佐為賢を始祖とする)とも、坂東八平氏のうち、良文流の七世の孫とも、平貞時(良持の子)を祖とする薩摩平氏の一族とも伝えられる。
徳重浅吉は、高棟王流伊勢守平真材の子の出羽守平季信(伝、出羽の弁の父)、従二位参議平親信に近い一族ではないかと推定している。
史料で判明しているのはの島津荘を開墾した事である。(後述)
季基の子は伊佐平次兼輔と伝わり、肥前国神埼荘に土着、神埼氏を称した。兼輔の子の神崎兼重は薩摩国阿久根に入り子孫は阿久根氏を称した。
万寿年間(1024年~1028年)に大宰大監(位階は正六位下、地下人であるが、その中では相当に高位の身分)であった季基は、弟の良宗と共に未開の地であった日向国諸県郡島津院を中心として荘園を開墾し、これを関白の藤原頼通に寄進して、後に日本最大級の荘園となる島津荘を成立させた。
季基は島津荘寄進前から、私貿易を行い、唐物を道長に送っている。季基は平氏系図に名前はないが、高棟王の子孫である平季信と世代と年齢、名前から極めて近親者であると想像され、藤原氏と接近できたのは、宮歌人として知られる季信の娘出羽弁の仲介があったといわれている。
万寿3年(1026年)に同地に移住し、荘官として島津荘の経営にあたった。その際、神託を受けて伊勢神宮を勧請し神柱大明神を造営(元は宮崎県都城市梅北町益貫黒尾神社の地にあったが、明治6年に現在地に遷座した)しその祠官を務めている。
長元2年(1029年)、大隅国庁および大隅国の住人藤原良孝の居宅を焼打ちにするが、季基は太宰大弐藤原惟憲に絹3000余り疋を贈る事によって、犯人として府解に記載されることを免れ、召喚されながらも処分は受けなかった。
後に家督を娘婿(又は子・兼輔の娘婿)である伴兼貞(肝付氏の祖)に譲り、自らは諸県郡南之郷箸野(橋野とも書く)御所に隠居し、同地に若一王子神社を造営し社司として生涯を終えた。
季基の墓所は鹿児島県曽於市末吉町南之郷字橋野にある(同市指定文化財)ほか、その霊は神柱宮の境内末社である基柱神社に祀られている。
『愛の言葉』(あいのことば 原題:Ur kärlekens språk 英題:The Language of Love)は、1969年製作のスウェーデン映画。 日本公開は1972年8月12日。日本におけるDVDタイトルは『スウェーデン・ラブ・ライフas愛の言葉』。
2006年4月28日放送開始。熟年世代の気になる話題を、多彩なゲストがフリーで語り合う。総合テレビの首都圏ローカル放送のほか、NHKワールド・プレミアムでも放送された(2009年3月まで時差放送。4月からは関東地方と同時放送)。
2008年12月開始のNHKオンデマンドでも配信されたほか、総合テレビの深夜枠、BSハイビジョンでも不定期で放送しており日本全国で視聴可能。
他地域同様、県別の編成が優先されるため、関東甲信越地域でも放送されないことがある。2010年3月で終了し、2010年度上半期は『イキだね!わたしの東京時間』が放送された。
日本ハウジングローン株式会社(にほんハウジングローン)は、かつて存在した日本の住宅金融専門会社(住専)。バブル崩壊により多額の不良債務を抱えて経営破綻し、1996年に解散。
1976年6月23日、設立(本社所在地 東京都千代田区有楽町1丁目7番1号)。住専8社では5番目の設立であった。主な株主は日本興業銀行(現:みずほ銀行)、日本債券信用銀行(現:あおぞら銀行)で、歴代役員には主に上記の2行からOBを派遣している。
1997年の経営破綻時には他に大和證券(現:大和証券グループ本社)、日興證券(現:SMBC日興証券)、山一證券(経営破綻)等が主要株主に名を連ねていた。
1980年代の不動産バブルにより業績を伸ばし、1995年3月時点での融資残高は22500億円余にも達する住専最大手となった。一方で、融資先には問題のある企業も多く、後に経営陣が罪に問われるなど、結果として他の住専に比べて多額の不良債務を抱えることとなった。
1996年、第136回国会において住専法が成立。同法に基づく破綻処理により同社の経営にもメスが入れられることとなり、同年6月26日、回収する見込みのない相手に巨額の無担保融資を行ったとして、元社長らが商法の特別背任罪の容疑で逮捕された。
同日、株主総会で経営権を住宅金融債権管理機構に譲渡して解散を決定。会社自体の清算は1999年3月17日をもって結了した。
特別背任の罪で起訴された旧経営陣に対し、後に東京地裁は実刑判決を、東京高裁は執行猶予付きの有罪判決を出している。一方、住宅金融債権管理機構の後身の整理回収機構は旧経営陣に対して総額36億円の支払いを求めて提訴していたが、後に元社長らが全額を弁済することで和解が成立している。
幼い頃より歌うこと、お芝居すること、ダンスを踊ることが好きで、2003年から2006年まで児童劇団・大きな夢に所属し、おもに主役で出演。中学3年生の時にミュージカル女優を目指すことを決意し、音楽科のある洗足学園高等学校へと進学する。2009年、高校3年生の時にDPI・NGO 国連クラシックライブ協会主催による音楽劇『赤毛のアン』で少女アン役の一人に選ばれる。
2010年、洗足学園高等学校音楽科より洗足学園音楽大学音楽学部ミュージカルコースへ進学。大学2年に在籍中の2011年に東宝芸能のオーディションを受けて合格すると、事務所に入って1ヶ月も経たないうちに受けたミュージカル『ロミオ&ジュリエット』のヒロインオーディションにて多くの候補者の中よりジュリエット役に選ばれ、メジャー作品プロデビュー。同年に初のストレートプレイとなる舞台『有毒少年』で初主演を果たす。その後もミュージカル『ハムレット』のヒロイン・オフィーリア役やミュージカル『レ・ミゼラブル』のエポニーヌ役などを演じて話題の作品に出演し、その歌唱力から「ミュージカル界の新世代の歌姫」として注目を集める。
一方で、2012年にはテレビ朝日『Wの悲劇』のクララ役でテレビドラマ初出演、また2013年にはテレビアニメ『銀河機攻隊 マジェスティックプリンス』のオープニングテーマ「私は想像する」で歌手デビューを果たす。
2014年に洗足学園音楽大学音楽学部ミュージカルコースを卒業すると、ミュージカル『アダムス・ファミリー』にウェンズデー役で、またミュージカル『ミス・サイゴン』にキム役で出演。さらに歌手としてテレビアニメ『一週間フレンズ。』のオープニングテーマ「虹のかけら」を担当する。
2016年10月には出演を予定していたミュージカル『ミス・サイゴン』の帝国劇場公演を声帯結節の治療のため休演、手術とリハビリを経て翌2017年1月19日の名古屋公演初日より復帰を果たす。
2017年4月には、ディズニー・アニメの実写版『美女と野獣』の日本語吹替版において、オーディションを経てエマ・ワトソン演じるヒロイン・ベル役の声優を務める。
ジャズ・ピアニストの桑原あいは高校時代の同級生。
この『最後の晩餐』は、カテリーネ・レスクイエル (Catherine Lescuyer) が、彼女の父親の記念のために制作を委嘱したものである。ルーベンスは、メヘレンの聖ロンバウツ教会の祭壇画の一部として、この作品を描いた。この作品は、最後の晩餐のイエスと使徒たちの姿を描いたもので、イスカリオテのユダは青い衣をまとい、鑑賞者の側を振り返るように、食卓から目をそむけている 。イエスを別にすれば、最も目立つ人物はユダである。ユダは、握った右手を口元にあて、画面に描かれた他の人物たちと視線を会わせるのを避けており、神経質な様子を表現している。周りのイエスは赤い衣をまとい、頭のまわりに黄色い光背(ハロ)があり、中空を見上げる姿で描かれている。イエスは画面の中央に描かれ、使徒たちはその左右に6人ずつ描かれており、イエスの手にはパンの塊があり、その前の食卓上にはワインの杯が置かれている。画面中のすべての人物の中で、最も光が当たっているのがイエスであり、画面の最も左に描かれている人物が最も暗い陰の中に描かれている。「この場面は最後の晩餐の神学的重要性を完璧な合成を表している」とされるが、これは、パンとワインの祝福と、それが裏切りの暴露というしても決定的に重要であることを意味している。
多くの北方絵画の描写に見えるように、画面に描かれた骨をくわえた犬は、おそらく単なるペットである。しかし、犬が伝統的に信仰心の象徴とされてきたことを踏まえると、この犬は信仰心を象徴している可能性もある。J・リチャード・ジャドソン (J. Richard Judson) によれば、ユダの足元に描かれた犬は、ユダの飼い犬であり、ヨハネによる福音書13:27にあるように、貪欲ないし邪悪を表象しているのではないかという。
ルーベンスは、この作品以前の1611年に、初めて最後の晩餐の絵画を制作しようと試みていたが、おそらくはルーベンスが4000ギルダーという高い報酬を要求したために、最後の段階で依頼者が手を引き、制作は放棄された。
レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』のテンペラによる壁画はルーベンスに大きな影響を与えており、ルーベンスはダ・ヴィンチの『最後の晩餐』を模写したエッチングも制作して、初めて全面的な人間の感情の表現を試み、版画作品はピーテル・サウトマンによって印刷された。ルーベンスはまた、人文主義的理念にも影響を受けており、それを通して聖書の主題を取り出していた。
ルーベンスは、作品を仕上げた後に、自ら、それを模写した版画を制作することがよくあった。こうした版画作品は、他の画家たちが自作のために参照していた。そうして制作された模写も、収集家たちの収集対象となっていた。こうした版画や模写も、存命中のルーベンスの名声を高める一助となっていた。
東部を青森県道28号岩崎西目屋弘前線が縦断し、町域の北部は元大工町・元長町・親方町、東部は鍛冶町、南部は相良町、南西部は在府町、西部は覚仙町・森町に接する。
村山警察署(むらやまけいさつしょ)は、山形県警察が管轄する警察署の一つである。
コスミックホールは安井建築設計事務所の設計で、可動式の反響板を持っており、多目的使用もできるが、豊かな響きを持つシューボックス型のコンサートホールとなっている。
コスミックホールの名前は、清楚で野性的な町花のコスモスと、秩序と調和を意味する宇宙をイメージしている。
東海旅客鉄道の鉄道駅一覧(とうかいりょかくてつどうのてつどうえきいちらん)
東海旅客鉄道(JR東海)の鉄道駅の電報略号による五十音順索引(廃駅を含む)。
核原料または核原料物質、親物質(Fertile material)とは、それ自身は熱中性子による核分裂反応を起こさないが、中性子捕獲および核変換により核分裂性物質に変化することができる物質である。
高速中性子炉では減速材がないか少ないため、高速中性子が利用できる。このため、核原料物質を炉心周囲のブランケットに用いたり、特別な燃料棒として利用することによって、増殖炉として構成することができる。プルトニウム238、 プルトニウム240およびプルトニウム242は熱中性子炉では燃えにくいため蓄積すると問題になるが、高速中性子炉では問題になりにくい。熱中性子を用いた増殖炉はトリウム燃料サイクルに限り実現可能である。これは、ウラン233の方がプルトニウム239よりも熱中性子による核分裂が確実に起きるためである。
核原料物質を用いて、宇宙空間における宇宙機用原子力推進燃料を生産することが提案されている。地球-月系のL1点に核燃料生産施設を設置し、地球からは大気中で安全な核原料物質を打ち上げることにより、核分裂性物質を地上から打ち上げる安全上のリスクを排除しながら、大量の核燃料を得ることができる。
次世代を担うミュージシャンやYoutuberを対決形式で発掘する。
ミュージシャン同士による音楽バトルでは3週勝ち抜きでグランドチャンピオン大会進出。
Youtuberバトルコーナーでは、レギュラーYoutuberのうちの1名をゲストYoutuberが指名し動画対決を行い、街角の一般人の方々に判定してもらう。
大学卒業後にカプコンに入社し、『大魔界村』など多くのアーケードゲームで作曲を担当。クレジットではGOLDEN、TAMASAN等の名前を使用している。
1990年、タイトーに移籍しサウンド開発部門「ZUNTATA」に所属。1994年に手がけた『レイフォース』で、ゲームの大ヒットと共に一躍脚光を浴びる。
2000年代中頃にタイトーを退社し、以降はフリーランスとして活動。
河本はサイトロンウェブシティとのインタビューの中でイエロー・マジック・オーケストラに影響を受けたことを仄めかしており、『シムーン』や『マッドピエロ』といった初期の作品を気に入っていたと述べている。
『ソンソン』を作っていた当時は、曲を素早くたくさん作り、その中から良いものを採用するという手法をとっていた。
2005年に限定生産されたCD-BOX『Ray'z PREMIUM BOX -BEYOND-』収録の、新規制作オリジナルCGムービー「BEYOND」の書き下ろしBGMに、ボーカリストのCyuaをフィーチャー。その後CyuaをボーカルとしたユニットBETTA FLASHを結成する。
2006年10月にジュノ・リアクター来日イベントのオープニングアクトを務め、2007年 - 2008年にゲームミュージックのライブイベント『EXTRA』に出演。2008年にはJapan Expoにも参加するなど、ライブ活動を行っている。
津波 恒徳(つは こうとく、1927年 - )は、沖縄県出身の沖縄民謡歌手、三線奏者で、「ちぶみ」、「二人が仲」などの作曲作品でも知られる。
1927年、読谷村長浜に生まれる。父は野村流古典音楽の師範、叔父は玉城流舞踊の師範であり、物心つくころから三線が弾けたという。戦時下、15歳のときに集団就職により大阪へ赴き、紡績工場で働くが、きつい仕事に耐えられず、親戚を頼って大阪や長崎を転々とした。
第二次世界大戦の終戦時に18歳であった津波は、民謡を志し、1948年に沖縄へ戻った。津波は、故郷の読谷村で理容所を営みながら、知名定繁に師事し、古典音楽や昔歌の発掘に取り組んだ。
やがてラジオやテレビの番組などに出演するようになり、のど自慢荒らしや、登川誠仁、喜納昌永との民謡ショーなどの活動で名を上げた。また、1959年には、石原節子とのデュエット曲「ひじ小節」でレコードデビューした。
その後は、後進の指導にも取り組み、金城実や古謝美佐子、松田永忠 、松田弘一らを育て、また、自らの流派として恒弦会を開き、琉球民謡保存会会長なども務めた。
1999年からは、息子である津波恒英や、嘉手苅林次とともに、「ゴーヤー・トーンズ」としての活動も行った。
西区の南西部に位置し、北は国道16号と石崎川、東は藤棚浦舟通り(横浜市主要地方道81号藤棚伊勢佐木線)、南西は水道道に囲まれた三角形に近い町域を持つ。水道道沿いは商店街を形成している。北東隅の浜松町交差点は国道1号と藤棚浦舟通り・国道16号が交差する交通の要衝で、国道16号は尾張屋橋で東海道本線・相鉄本線・帷子川を渡り、洪福寺・相模原市方面へ至る。北西端の西平沼町との境界近くには相鉄線西横浜駅がある。
1928年(昭和3年)、中区西戸部町字塩田及び中区久保町字塩田から新設された。1838年(昭和13年)、西戸部町・久保町の各一部を編入。1944年(昭和19年)4月1日、中区から西区が新設された際には西区に編入された。1955年(昭和30年)、藤棚町と境界変更。1966年(昭和41年)5月1日に住居表示が施行され、浜松町の一部が平沼2丁目・藤棚町・保土ケ谷区西久保町に編入されるとともに、藤棚町・扇田町・杉山町の各一部が浜松町に編入された。扇田町と杉山町は、この時に廃止された。さらに1966年9月には平沼2丁目の一部が編入された。 町名は、かつてこの地が塩田だった頃に磯馴松があった事に由来する。
王 裕之(おう ゆうし、361年 - 448年)は、東晋から南朝宋にかけての官僚。字は敬弘。本貫は琅邪郡臨沂県。
晋陵郡太守の王茂之(王廙の子の王胡之の子)の子として生まれた。琅邪国左常侍を初任とし、衛軍参軍に転じた。後に天門郡太守となった。桓玄の姉を妻としたが、江陵に置いたまま迎えようとせず、任地で悠々自適に暮らした。桓偉の下で安西長史・南平郡太守となった。まもなく官を辞して、作唐県の境に居住した。桓玄が政権を握ると、裕之はたびたび招聘があったが、応じようとしなかった。
劉裕の下で車騎従事中郎となり、次いで徐州治中従事史をつとめた。さらに劉道規の下で征西諮議参軍となった。後に中書侍郎として朝廷に召されると、作唐県から家族を連れて建康に入った。長らく経って黄門侍郎に任じられたが、受けなかった。太尉従事中郎となり、呉興郡太守として出向した。まもなく侍中として召還された。415年(義熙11年)、劉裕が荊州の司馬休之を討つと、裕之は安帝の命を受けて慰労の使者に立った。通事令史の潘尚が道中で病にかかったため、裕之がかれを船で送り返したところ、御史の奏上により免官された。まもなく赦令が出て官に復帰した。宋国が建てられると、度支尚書となり、太常に転じた。
420年(永初元年)、劉裕が帝位につくと、裕之は宣訓衛尉に任じられ、散騎常侍の位を加えられた。422年(永初3年)、吏部尚書に転じた。廬陵王劉義真の師に任じられたが、王の師範たる徳がないとして、固辞した。さらに秘書監に任じられたが、やはり受けなかった。424年(景平2年)、文帝が即位すると、裕之は散騎常侍・金紫光禄大夫の位を受け、江夏王劉義恭の師師を兼ねた。
426年(元嘉3年)2月、尚書左僕射となった。行政文書を読まず、文帝の諮問に答えることもできず、実務上の無能をさらけ出して文帝の不興を買った。429年(元嘉6年)4月、尚書令に任じられたが、固辞した。5月、侍中・特進・左光禄大夫に任じられたが、侍中・特進については固辞し、東方の自邸に帰って隠棲生活に入った。
435年(元嘉12年)、太子少傅として召されたが、上京して謝絶し、受けなかった。439年(元嘉16年)1月、左光禄大夫・開府儀同三司の位を受けた。448年(元嘉25年)7月、余杭県の舎亭山で死去した。享年は88。諡は文貞公といった。