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女川町(おながわちょう)は、宮城県牡鹿郡にあり、太平洋沿岸に位置する町である。三陸地方南部に位置し、日本有数の漁港である女川漁港があるほか、女川原子力発電所が立地することでも知られる。 概要. 町域は、三陸復興国立公園地域に指定されている。北上山地と太平洋が交わるリアス式海岸は天然の良港を形成し、カキ(牡蛎)やホタテガイ(帆立貝)、ギンザケ(銀鮭)などの養殖漁業が盛んで、金華山沖漁場が近いことから、地方卸売市場には暖流・寒流の豊富な魚種が数多く扱われる。中でもサンマの水揚げ量は全国でも有数であり、大漁を祈る「サンマdeサンバ」という曲が地域の祭りや運動会で踊られることもある。 また、町の南には石巻市にまたがって東北電力の女川原子力発電所があるが、東日本大震災(2011年3月11日発生)以降は運転を停止している。 女川町の公式マスコットは「シーパルちゃん」。 地理. 自然. 女川町は町域の三方を北上山地に囲まれ、総面積の83%を林野がしめており、平地は少ない。また、ケッペンの気候区分によると、温暖湿潤気候であり、そのバイオームは夏緑樹林が分布している。 広域地域区分. 宮城県内の地勢的な地方区分である、北部・中部・南部のうち、中部地方に属し、その北東部に位置する。 現在の宮城県の広域行政圏としては、石巻市・東松島市とともに、広域石巻圏を形成する。 町内の地域. 女川町の町丁や大字は以下の通りである。 震災後の区画整理事業により町名が新設され、住所変更が行われた(2019年12月28日実施)。 歴史. 女川町西方背後にある黒森山の麓にあたる奥地に安野平(あのたいら)という所から流れ出る渓流がある。伝承によれば、平安時代に起こった前九年の役の際に安倍貞任の軍勢が隣村の稲井(現在の石巻市稲井)の館に寄り、源氏方の軍と戦ったとき、一族の婦女子を安全地帯であった安野平に避難させた。このことから、ここから流れ落ちる小川を「女川」と呼ぶようになったという。 江戸時代は仙台藩領だった。仙台藩では領内を南方、北方、中奥、奥の四つに区分していて、女川がある牡鹿郡は中奥に属した。牡鹿郡は陸方と浜方に区分され、さらに浜方はその内部で狐崎組、十八成組、女川組に分けられ、それぞれに大肝入が置かれた。 1889年(明治22年)4月1日に町村制が施行された際、藩政時代の女川組20浜の各村が合併して女川村となった。村名に女川が選ばれたのは、女川浜が藩政時代に女川組の大肝入の居住地であったこと、全地域が女川組としてまとめられていたこと、また地の利を得ていたことに由来するのだろうと『女川町誌』は記している。1926年(大正15年)4月1日に町制へ移行し、女川町となった。
女川湾は比較的水深が深く、宮城県に寄港する大型船舶の碇泊地になることが多かった。塩釜港や石巻港が浚渫整備される以前は、日本海軍の艦船が女川湾に停泊しており、女川湾の商港の整備に当たって軍港誘致の請願が行われた。第二次世界大戦中には、東北地方太平洋岸の防空・対潜任務のため、横須賀鎮守府隷下の「女川防備隊」がここに設置され、艦艇が配置された。また、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)8月9日には連合国軍機による空襲を受けて海軍艦艇7隻が撃沈された。 行政. 女川町の財政は、東北電力の女川原子力発電所の立地による固定資産税や「原子力発電施設等周辺地域交付金」および「電力移出県等交付金」からなる「電源立地特別交付金」が交付されるため、近隣の市町村と比べると潤沢な財政を持つ。2012年度までは地方交付税が支給されていない地方公共団体であった。そのため、石巻市など周辺市町村との合併には消極的である。 歴代町長. 女川町の歴代町長および女川村の歴代村長は以下の通りである。 立法. 町議会. 以下は2020年10月19日現在での町議会議員の一覧である。 東日本大震災. 2011年(平成23年)3月11日14時46分18秒、マグニチュード9.0の東北地方太平洋沖地震が発生し、女川町は女川原子力発電所の震度計が震度6弱を観測した(町内の検測所は津波で流失)。 さらにこの地震が引き起こした津波に襲われ、沿岸部は壊滅的被害を負った(東日本大震災)。また、港湾空港技術研究所の調査によれば、津波の最大波高(浸水高)は女川漁港の消防庁舎で海抜14.8mを記録した。 津波で3階建ての町庁舎も冠水したが、町長以下職員は間一髪屋上に避難して無事であった。女川原子力発電所は高台にあったため辛うじて津波の直撃を免れたものの、発電所を管理する宮城県原子力センターや原子力防災対策センター(双方とも2階建ての建物)は屋上まで冠水し、環境放射線監視システムが壊滅。職員の多くも行方不明となったため、国や県に一時的に報告ができないという状態に陥った。 女川湾から約100mのところにあった七十七銀行女川支店では高さ約10mの屋上に行員が避難したが津波に飲み込まれた。 東北電力は女川原子力発電所の潮位計の記録を解析し、当施設が浸水高13mの津波に襲われていたことを、4月7日に公表した。女川原発の敷地の標高は14.8mであるが、地震で約1m地盤沈下したことが分かっており、計算上、津波は敷地まで80cmの高さにまで迫っていたことが判明した。実際、津波の飛沫の痕跡が敷地の外縁に残っていた。なお、最大波から15分ほど後に発生した強い引き波のときには、海水面が下がりすぎて原子炉を冷却するための取水口が3- 5分の間むき出しになっていた可能性もあるという。
ムーサ( )またはムサは、技芸・文芸・学術・音楽・舞踏などを司るギリシア神話の女神。 ムーサが司る技芸は古代ギリシア語でムーシケー()と言い、そこに含まれているのは科学的音楽理論に関連する芸術全般・さまざまなリズムによる時間芸術(音芸術・詩の朗誦の芸術・舞踊など)・総合芸術である。ムーシケー(技芸)は、英語のミュージック(music)の語源。 「ムーサ」の複数形はムーサイ(Mousai, , )。英語・フランス語のミューズ (英語・フランス語単数形: 、フランス語複数形 ) やミューゼス (英語複数形: ) としても知られる。ドイツ語ではムーズ ()、イタリア語ではムーザ () などとなる。 ムーサたちはパルナッソス山に住むとされており、またヘリコーン山との関係が深い。ヘリコーン山にあるアガニッペーの泉とヒッポクレーネーの泉を主宰する場合にローマ神話の泉の女神「カメーナエ」と同一視された(詳しくはペーガソスを参照のこと)。ムーサたちを主宰するのは芸術の神・アポローン(「アポローン・ムーサゲテース ()」という別名を持つ)である。しばしば叙事詩の冒頭でムーサたちに対する呼びかけ(インヴォケイション)が行われる。なお『ホメーロス風讃歌』にはムーサたちに捧げる詩がある。 ムーサたちの一覧. ヘーシオドスの『神統記』によれば、大神ゼウスとムネーモシュネーの娘で9柱いるとされており、「黄金のリボンをつけたムーサたち」と形容することがある。別伝ではハルモニアーの娘とする説や、ウーラノスとガイアの娘とする説もある。ピーエリア王ピーエロスの娘・ピーエリスたち(ピーエリデス)とも同一視された。 古くはその人数は定まっておらず、ヘリコーン山で崇められた最初のムーサたちではウーラノスとガイアの娘であるアオイデー(歌唱 ())、ムネーメー(記憶 ())、メレテー(実践 ())の3柱、それをムネーメーを除くテルクシノエー(魅惑 ())とアルケー(始源 ())を加えたゼウスとネダーの娘である4柱、レスボス島とシシリア島ではネイロー()、トリトーネ()、アソポー()、ヘプタポラー()、アケロイース()、ティポプロー()、ローディア()の7柱とされていたが、ヘーシオドスによって9柱にまとめられた。その他、シキュオーンやデルポイではネテー()、メセー()、ヒュパテー()の3柱で、竪琴の3本の弦の化身であった。また、アポローンの娘であるケフィソー()、アポローニス()、ボリュステーニス()の3柱とする説もある。 アルクマーンによる3柱. アルクマーンによると、ウーラノスとガイアの娘。主に詩歌の形式と技巧を司る。 キケローによる4柱. キケローによると、ゼウスとネダー(またはプルシアー())の娘。主に曲芸の形式と技巧を司る。 ヘーシオドスによる九姉妹. 9柱それぞれの名前と司る分野、および持ち物は以下の通り。
当初は特定の分野が割り当てられず、音楽・詩作・言語活動一般を司る知の女神たちであったようだが、古典期を通じてローマ時代の後期には各ムーサがつかさどる学芸の分野が定められ、現在広く知られる形が出来上がった。またツェツェース(, およそ1110年 - 1180年)による著作ではカリコレ ()、ヘリケ (ヘリケー、)、エウニケ (エウニーケー、)、テルクシノエ (テルクシノエー、)、テルプシコラ (テルプシコラー、)、エウテルペ (エウテルペー、)、エウケラデ ()、ディア (ディーア、)、エノペ ()といった9柱のムーサが述べられている。 神話には、音楽の競技の場合に登場することが多い。アポローンとマルシュアースの音楽合戦の審判役をつとめたほか、タミュリス、セイレーンたちやピーエリスたちなどが、ムーサたちと歌比べの勝負を挑んだが敗北した神話が残っている。 文化への影響. ヨーロッパの多くの言語では、下記のとおり「音楽」を意味する語、また「美術館/博物館」を意味する語がこの名前から派生した。 古典古代の学堂であったムセイオンは、もとは文芸の女神ムーサを祀る神殿であったが、後に文芸・学問を研究する場にも使われるようになった。ルネサンス以降に西洋に博物館が成立した際に、ムセイオンの名が復活している。 ルネサンス期以降、ムーサたちにちなんで、 『パルナッソスへの階梯』という名の詩学・音楽教本が多く書かれた。ドビュッシーのピアノ組曲「子供の領分」に含まれる第1曲「グラドゥス・アド・パルナッスム博士」は、これにちなんだ題名で、これから始まる組曲の開始曲として配置されている。
『どうぶつ奇想天外!』(どうぶつきそうてんがい、)は、1993年10月16日から2009年3月29日までTBS系列局で放送されていた動物をテーマにしたバラエティ番組である。全582回。放送内容から教養番組と見る向きもあるが、TBS公式サイトではバラエティに分類されていた。 概要. TBSは1992年3月まで、同じく動物をテーマにしたクイズ番組『わくわく動物ランド』を放送しており、その制作を通じて得た「資産」をこの番組にも活かしていた。後述の千石正一も、『わくわく』において爬虫類の専門家としてたびたび登場していた。 本番組はペットとして飼われる犬、猫、猿といった、人間にとって身近な動物を取り上げる度合いが高かった。また、盲導犬に対する理解を視聴者に広く訴えかけ、彼らの誕生から人間による育成、その仕事と生活、そしてリタイア後の晩年の模様などをたびたび特集していた。なお盲導犬の取材は、レギュラー解答者だった加藤晴彦が長きにわたって担当していた。 番組は土曜20:00枠で放送開始し、それから6年半後の2000年4月に日曜20:00枠へ移動。放送時間の変更後には、直前の時間帯に放送されていた『さんまのSUPERからくりTV』とステーションブレイクなしで接続していた。10年以上にわたる長寿番組として人気を獲得した。 番組は、放送15年目に入った2007年10月21日放送分でリニューアルを行った。さらに2008年に入ってからは、オープニングを廃止していきなり第1問のVTRからスタートし、スタジオの映像へは第1問のシンキングタイムになってようやく切り替わる構成に変更し、それまで原則存在しなかった次回予告も毎回挿入するようになった。しかし、同年に入ってからは視聴率が1桁台を推移するようになった。2月24日放送分からは「今週のラインナップ」(この時、画面左上に番組タイトルが表示される)の後、首都圏在住の幼稚園児が「どうぶつ奇想天外!始まるよ!」とタイトルコールをする映像を入れるなど、場合によってはエンディングの提供読みとその後のCMを前倒しし、特集や最後の問題で番組を終了するという構成に再び変更した。さらに4月13日以降の放送では、提供スポンサーの一部入れ替えや、クイズの出題数の低減、そしてそれまでは番組スペシャル回を中心に行っていたゲスト解答者を迎えての放送をレギュラー化し、優勝者が複数出た場合の対応や、海外旅行プレゼントの応募方法も変更した(詳細はルールを参照)。放送16年目に突入した10月12日放送分からは、それまでのメインであったクイズに代え、全面VTRを見ながら出演者陣がトークを繰り広げる形式が中心となるなど、わずか1年の間に度重なるテコ入れが行われた。
2008年12月、本番組が2009年3月をもってレギュラー放送を終了することがサンケイスポーツなどによって報じられた。そして番組内でも2009年3月1日放送分のエンディングにおいて、3月29日放送分をもって終了することが正式に発表された。これにより、1983年からの『わくわく動物ランド』時代を含めて25年以上続いたTBSの動物バラエティ番組の歴史にピリオドが打たれた。本番組の打ち切りに、みのは激怒し「何故、歴史ある動物番組を潰すんだ!」「潰すなら他の番組があるだろ」としてTBS上層部にクレームを付けたと、2009年3月発売の『週刊朝日』が報じている。「他の番組」とは、6月に終了することになった『水曜ノンフィクション』を指しているとのことである。 最終回は、2009年3月22日・3月29日の2週にわたって19:00 - 20:54の拡大版で放送された。1週目では、過去のいたずら実験、チンパンジーのモモちゃんと調教師の宮沢厚との再会などを放送し、事実上の最後の回となった2週目では、アムールヒョウやフォークランド諸島に棲むペンギンたちの暮らし、15年間の蔵出し映像などを放送。エンディングではみのが最後の挨拶を行い、その後に番組スタッフから全出演者に対して花束が贈呈されて番組は終了した。番組終了時点での出演者と番組スタッフの一部は、その後も『飛び出せ!科学くん』(2009年4月 - 2011年9月こちらは動物以外の分野を扱う教養番組)や『夢!どうぶつ大図鑑』(2011年10月 - 2012年3月17日)に参加した。 番組はその後、2016年9月21日19:00 - 21:54 に3時間の特別番組としておよそ7年半ぶりに放送され、2017年7月1日18:55 - 21:48に「新どうぶつ奇想天外!」のタイトルで放送。また、2018年1月7日、6月27日にも同タイトルで放送される。2018年以降の放送ではみのが出演しないなど、出演者やナレーターが刷新されたものの、東京スカパラダイスオーケストラ演奏の音楽は引き続き使用。 2020年10月3日からYouTube公式チャンネルを開設し、本番組を始め、『わくわく動物ランド』などのTBSにて放送してきた動物番組のセレクションを毎週3本から4本のペースで配信している。 2023年5月20日、大型生放送特番『一緒にやろう SDGsの日』内の1コーナーとして、約5年ぶりに1日限り復活。コーナーは生放送で行われたがクイズの出題はなく、本番組元レギュラーの中尾明慶、杉野遥亮出演のVTRを、同特番総合司会のバナナマン(設楽統・日村勇紀)、同特番主要出演者の上白石萌音・野口聡一・杉野がスタジオで視聴しながらトークを繰り広げる形式だった。 2024年4月18日、本番組の中から厳選した30のエピソードを同日12時から定額制動画配信サービス「U-NEXT」のParaviコーナーにて配信を開始した。 出演者.
最後の半年間のレギュラー出演者は、司会にみのもんた、解答者にガレッジセールの2人。みのにとって、本番組がTBSで初めてのレギュラー番組であった(それ以前には、他の番組に数回ゲストとして出演していた程度である)。みのは他の出演者に対し、原則として敬称無しで下の名前で呼んでいた。 みのは、本番組の初回から最終回まで通して出演していた唯一の人物である。アシスタントとして雨宮塔子、金子あや、外山惠理、久保田智子、枡田絵理奈(金子以外は出演当時TBSアナウンサー)が出演していた。 レギュラー解答者として最も長い期間出演していたのは、第1回から2008年9月(番組終了の6か月前)まで出演していた高田純次。解答者は他にトミーズ雅、高田万由子、渡辺満里奈、鈴木蘭々、加藤晴彦、ホンジャマカ、吉野紗香、深谷愛、大森玲子、ガレッジセール、井上和香、田中圭、長谷部瞳、ほしのあきがいた。 ナレーターは、前番組『自然がいちばん!地球塾』から引き続き小島一慶が務めていたが、2008年に発覚した自らの不祥事による引責降板をTBSに申し入れて了承されたことにより、2008年12月いっぱいで降板。それから最終回までのおよそ3か月間は、大塚明夫をはじめとする複数の男性ナレーターが務めていた。なお、大塚は番組の終了後も、『飛び出せ!科学くん』でナレーターを務めていた。吹き替えは、青二プロダクションに所属する声優たちが担当していた。 BGM. 本番組では東京スカパラダイスオーケストラによる番組独自のBGMのほか、『コズモギャング・ザ・ビデオ』や『ドラゴンクエストIII』などのテレビゲームのBGMが起用されていた。実験VTRでは『こちら葛飾区亀有公園前派出所』『ポケットモンスター』『仮面ライダー』といったアニメや特撮ヒーロー系のBGMが使用されたこともある。 特番での休止. 本番組は国際的なスポーツ大会中継などで休止することが多かった。 土曜日時代の1998年には、バレーボール世界選手権をTBSで独占中継することとなった影響で、約1か月にわたって番組が休止となった。日曜日時代の2006年もTBSで独占中継されたため、11月5日 - 12月3日の5週間、その前の番組である『さんまのSUPERからくりTV』と共にやはり1か月ほど番組が放送を休止された。 また世界陸上で2003年と2005年(ともに日曜日時代)に「女子マラソン」を編成された場合休止したことがあり、2007年の大阪大会開催期間中の日曜日は上記と同様『〜からくりTV』とともに休止された。 2007年8月は「女子バレーワールドグランプリ」がこれまでのフジテレビからTBSテレビへ移行されることと3週(8月5日・8月12日・8月19日)続けて日本で開催されることと前述の『世界陸上大阪大会』(8月26日・9月2日)が入る関係上、前番組の『〜からくりTV』も含め5週連続して休止される予定だったが7月29日に第21回参議院議員通常選挙が実施され開票特番『乱!参議院選挙2007』の放送に伴い6週連続して休止した。 2006年7月23日はプロ野球サンヨーオールスターゲームの第2戦中継(7月22日は降雨中止となったため)のため放送休止。
2006年10月29日はプロ野球『日本シリーズ・第7戦』で双方ともに休止される可能性もあったが、第5戦で終了したため、休止を回避された(土曜日時代の1999年10月30日も同様)。 2007年10月14日に『15年目!新スタート超豪華スペシャル』を放送予定であったが、プロ野球セ・リーグクライマックスシリーズ第1ステージを放送することになったため、10月21日に変更になった。 2008年には5月18日と6月1日に『2008北京オリンピックバレーボール世界最終予選』放送のため、6月22日と7月6日は北京オリンピック前哨戦となる『女子バレーボール ワールドグランプリ』が放送されたために休止となった。 主な出演者. 1996年4月のセット一新以降、司会席と解答者席にはそれぞれ出演者と動物を掛け合わせた人形が置いてあり、それについても記述する。しかし2016年の復活特番では設置されなかった。 アシスタント. ※所属は番組出演当時のもの。4代目までは全員必ず、卒業時のエンディングでみのから花束が贈られていた。そのうち、初代アシスタントの雨宮のみ、番組開始当初の試行錯誤の重みからかみのが号泣し、雨宮へ労いの言葉を泣きながら述べて花束を渡している。しかし、2代目から4代目の花束贈呈時はいたって普通に労いの言葉を述べて花束を渡している。 レギュラー出演者. 1993年10月から2008年9月までの解答席の色も記述する(確定分のみ、不明者は記載なし)。 クイズのルールと演出. 全ての期間共通の書き問題は絵を描かなくてはいけないというルールだった為、個性的な絵が連発したが最末期になると早押し問題が出題されるようになった。 当初のルール. パネラーは原則、通常放送時4人(4組)。最初にノルマポイントを指定する。ノルマポイントを達せばパネラー全員にスポンサーのJR東日本より「びゅう旅行券」(10万円分)を進呈し、逆にノルマポイントを満たなかったら視聴者4人に「びゅう旅行券」(10万円分)をプレゼントした。 1枠席は黄色、2枠席紫色、3枠席緑色、4枠席ピンク色のテーブルと解答席背景の順にこの当時の各局クイズ番組に多かった横1列に解答者が着席していた。 中期・1994年4月以降のルール. 番組2年目突入の1994年4月9日放送分より、パネラーは原則、通常放送時5人(5組)、スペシャル時は6人(6組)に変更。パネラーの1人(1組)増員に伴いセットを一新、解答席を横1列4人(4組)から、いわゆる1列目3人(3組)と後列2列目2人(2組)に出演者が着席する(スペシャルでは後列も3人(3組))ひな壇状の席配置へ変更した。解答するテーブルは何度もマイナーチェンジしているものの(解答者のネームプレートデザイン・ランプの位置・テーブル設置固定マイク廃止・ピンマイク化など細かい点)、セット配置はクイズ形式が消滅する2008年9月まで14年半、変わらず続いた(VTRナレーションのみ構成の特別版と番宣特番を除く)。
ノルマポイントを廃止し、「びゅう旅行券」(10万円分)を視聴者から「この日のポイント数」人にプレゼントした。さらに個人戦初期は「トップ賞のパネラーのこの日のポイント数」人に「びゅう旅行券」(10万円分)プレゼントした。JR東日本がスポンサー降板後は、トップ賞のパネラーのサイン入りのサルのぬいぐるみを「トップ賞のパネラーのこの日のポイント数」人にプレゼントした。この時期にパーフェクトを達成すると、最後に落ちてくるサルは王様の格好をしていた(この王様サルもプレゼントされていたかは不明)。 そのほか賞品として、優勝者にはスワロフスキー社のシルバークリスタルが賞品として渡された。ペットの専門店・コジマより動物生体のプレゼントがあった(後述)が、その後廃止された。 2008年3月30日放送分までは問題数がレギュラー・特番に関係なく2ポイントの問題2問と1ポイントの問題1問の都合3問だった。2ポイントの問題で「完全な正解」ではないが正解に近い答えを書いた場合は1ポイントだけ獲得出来ることがある(大半はみのの裁量)。得点は「ウッキーモンキー」と呼ばれるサルのぬいぐるみで表された。 2006年10月29日放送分までは得点トップの解答者が複数いた場合はジャンケンで優勝者を決めていた。 解答をオープンする時の効果音はコナミのアーケードゲーム「ヘクシオン」のクレジット投入音が使われていた。 1列目1枠席青色・晴彦、2枠席緑色・満里奈、3枠席黄色・純次、後列2列目4枠席赤色・雅、5枠席ピンク色・蘭々のテーブルの順に解答者が着席していた(一例。これは満里奈初回1995年4月 - 雅・蘭々卒業の1998年9月における通常時)。解答席背景セットは廃止され、セット全体が背景になった(解答テーブルのみとなる)。 2008年10月以降のルール. クイズは時々出題されるものの、優勝を競う方式ではなく、バッジ10個をためて出演者・ゲストが希望する地域への海外旅行を目指す方式に変わった。さらに、司会であるはずのみのもクイズに解答することとなった。 2016年復活特番のルール. クイズ形式を本格的に復活。基本的に中期のルールをそのまま採用。ただし、レギュラー放送時代の解答者は純次と満里奈のみの参加であり、その他のレギュラーはVTR含め一切出演しなかった。ゲスト解答者は、上地雄輔、ももクロ・森三中そして番宣で来た向井理という「レギュラー放送時代に視聴者だった代表芸能人」としてこの4組が参加した。ただし、細かい演出上では得点表示が2006年以降同様セットを作成せずCG合成となり、BGMは従来のものが多数使用されたものの、解答をオープンする時の効果音は全く異なるものへ変更、さらに答え合わせVTRの際のBGMも同じく異なるものが使われた、他にも既婚者のみが答える問題もあった。 しかし、解答席にテーブルはなくなり、座る椅子と解答者の左横(スタジオ上では右)に細長いランプが設置されただけだった。テーブルがなくなっためネームプレートはなく、氏名(またはグループ)は字幕スーパーテロップ表記と得点表示時だけであった。 事故.
マニア( (メィニア))は、「狂気」の意味のギリシャ語に由来し、以下の複数の意味を持つ語。 現代日本では一般的に「ひとつのことに熱中する人」を意味する語として用いられる(英語では、熱狂状態にある人を指す語は maniac である)。 言葉. 「マニア」の語源は、ギリシャ語で狂気を意味する である。日本語では「〜狂(きょう)」と訳されることがある。 日本では、1914年発行の『外来語辞典』(勝屋英造、二松堂書店)に、英語からの外来語として「マニア」が収録されていることが確認できる。「マニア」は「狂、躁狂、狂気」と説明されている。このほかこの辞典には「ビブリオマニア」の語も収録されている。 精神疾患としてのmania. mania は、躁うつ病の躁状態(躁病)を指す語でもある。現行の診断名は双極性障害。 現代では精神疾患とされる症状(偏執症、依存症、衝動制御障害など)を指す語に、接尾辞 -mania を含むものがある。日本語に訳される際にそのままカタカナで置き換えられることもある。 社会現象としてのmania. 熱狂的な状況についても mania が使われる。日本語に訳される際にそのままカタカナで置き換えられることもある。 「ひとつのことに熱中する人」としてのマニア. 英語の mania, maniac と日本語の「マニア」. 英語の mania は熱狂などの「状態」を指す語であり、そのような状態にある「人」を指す語は主に maniac である(maniac には形容を指す用法もあるという)が、日本語では「人」を指す語として「マニア」が通用している。その点で日本語文脈の「マニア」は、「カタカナ英語」「和製英語」と言いうるものである。 近代に「マニア」という語が移入された日本では、趣味対象に「マニア」を付す用法が登場する。明治期には収集癖を指す「コレクトマニア」(collectomania) という語の用例があるが、いくつかの辞書では和製英語であると説明している。日本では「カーマニア」 (英語では) や「鉄道マニア」(英語では railfan, railway enthusias, train buff など)などの語が用いられている。 ビブリオマニア () あるいはビブロマニア (Biblomania) という語は、強迫性障害の一種として書物を収集するものを指す用語として使われている(「蔵書癖」などとも訳されている)。これらの語は、あくまでも趣味として書籍収集に熱中したり書籍への愛着の度合いが著しかったりする愛書家(ビブリオフィリア Bibliophilia)とは区別されべきであると言われる。ただし、一般的な辞書の語釈では「ビブリオマニア」が愛書家の意味で説明されている。また、ビートルマニア () は、英語ではビートルズファンの熱狂(社会現象)を指す語であるが、日本語文脈ではビートルズファンを指して用いられることがある。 「マニア」という語のニュアンス. 英語の maniac には「手が付けられないほど度が過ぎた状態になった人」という否定的なニュアンスがある。ミッキー・グレースは、熱狂的な愛好者という意味であれば、maniac よりも fanatic と訳したほうが良いとしている。箱田勝良は mania cは「狂った人」を連想させるネガティブな意味合いの語であり、スポーツであれば "a baseball maniac" という表現もできなくはないが「大げさな表現」であり、総じて「あまり使わないほうがいい」とする。 日本語では「マニアック」は熱中のはなはだしさなどの程度を指す形容詞として使われている。知識についてしばしば肯定的に、畏敬の念とともに使われることもある。
サントドミンゴ()は、ドミニカ共和国の首都。人口は約96万人(2010年)。カリブ海最大級の都市圏を形成している。アンティル諸島で最初にヨーロッパ人が入植した都市であり、1990年に世界文化遺産として登録された。 歴史. 1492年にクリストファー・コロンブスが到着する前、タイノ族は彼らがキスケヤ(Quisqueya)またはアイティ(Ayiti)と呼んでいた島に住んでいた。コロンブスはこの島をイスパニョーラ島と名付けた。ドミニカ共和国だけでなく、現在のハイチ共和国もこの島の一部である。当時、島はマリエン(Marién)、マグア(Maguá)、マグアナ(Maguana)、ハラグア(Jaragua)、イグエイ(Higüey)の5種の族長の領土であった。5つの領土は、それぞれグアカナガリクス(Guacanagarix)、グアリオネクス(Guarionex)、カオナボ(Caonabo)、ボエチオ(Bohechío)、カジャコア(Cayacoa) のカシケ(首長)によって統治されていた。 1496年、スペイン人が島に定住し、1498年8月5日、公式にサントドミンゴは南北アメリカで最初の欧風都市となった。コロンブスの弟バーソロミュー・コロンブスは、居住区を創設し、スペイン女王イサベル1世にちなんで、居住区をラ・イザベラ(La Isabela)と名付けた。そこは後にドミニコに敬意を表してサントドミンゴと改名された。 1502年にサントドミンゴはハリケーンによって破壊されたため、新統治者ニコラス・デ・オバンドは、付近の別の土地に街を再建した。都市の元のレイアウトとその防護壁の大部分は、今日でも、コロニアル・ゾーン(Colonial Zone)の至る所で確認することができる。1990年に歴史的なコロニアル・ゾーンは、「サントドミンゴの植民都市」として、ユネスコの世界遺産に登録された。このエリアはオザマ川(Rio Ozama)に隣接し、中世後期の時代の建築様式を反映した宮殿風の住宅や荘厳な教会を含む、16世紀の印象的な建物が多く存在する。 コロンブス到着後の最初の100年、サントドミンゴは、新大陸の探検や征服の拠点となった。エルナン・コルテスのメキシコ征服や、バスコ・ヌーニェス・デ・バルボアの太平洋の調査などの遠征は、すべてサントドミンゴが拠点となった。1586年フランシス・ドレークが、街を占領して身代金を要求した。イスパニョーラ島でのドレークの侵略や海賊行為は、50年以上に渡って、スペインによる島の支配を弱体化させ、街が放棄され、海賊行為が横行するまでになった。1655年、イングランド王国のオリバー・クロムウェルによって派遣された軍がサントドミンゴを襲撃したが、敗れて撤収し、街の代わりにジャマイカ島を占領した。 1795年から1822年まで、植民エリアの変化に伴い、街の所有者も何度か変わった。1795年にフランスに譲渡され、1801年にハイチ革命で(解放)奴隷により占領され、1802年にフランスが再占領し、1809年にはスペインが再占領した。1821年にサントドミンゴは、ハイチ人により征服され、その2ヶ月後に独立国家であるスペイン・ハイチ共和国の首都となった。これらの結果、街や植民エリアのスペイン人の人口は激減した。
サントドミンゴは、1844年2月27日に、に率いられ、ハイチの支配から独立を勝ち取り、再び自由国家の首都となった。 その後、街は様々な政治的な派閥による抗争の標的となり、不安定な数十年間を迎える。加えて、ハイチとも数度に渡って争いを繰り返さなければならなかった。3月19日の戦い(Battle of March 19)、3月30日の戦い(Battle of March 30)、ラス・カレラスの戦い(Battle of Las Carreras)、ベレルの戦い(Battle of Beler)などが最も有名な戦闘で、これらの戦いにちなんだ街路が存在し、国歌にも登場する。 1861年スペインが再び現れ、ドミニカの指導者であったペドロ・サンタナと取引をして、新しい国家のスペインの支配下への併合との交換条件に、多くの称号や特権を認めさせた。しかし1863年にドミニカ回復戦争が始まり、1865年にスペインが撤退した後、ドミニカは再び自由国となった。 次の60年間、サントドミンゴとドミニカ共和国は幾多の革命、支配権力の変化、1916年から1924年までのアメリカ合衆国による占領を経験した。1930年、街はハリケーン「サンセノン(San Zenón)」によって破壊され、多くの損害が出た。再建後、同年ラファエル・トルヒーヨが大統領となり、シウダートルヒーヨ(トルヒーヨ市、)に改称されたが、1961年に暗殺され独裁政権が崩壊すると、元に戻された。1965年のドミニカ内戦でアメリカ合衆国が軍事侵攻した際、サントドミンゴでは市街戦が行われた。 1992年に、コロンブスの新大陸発見から500年を迎えた。が、サントドミンゴに約4億ペソの費用で立てられ、論争の対象となっている。
皇太后(こうたいごう、)王太后(おうたいごう、)は、先代の皇帝・天皇・国王の皇后であった者、ならびに皇帝・天皇・国王の母親(母后)である者、およびその称号。ただし必ずしもこの定義にあてはまらない事例もある。 中国の皇太后. 太后という単語自体は、君主の母を指して用いられた言葉である。称号の初出は、秦の昭襄王は即位したあと、嫡母の恵文后と区別するため生母の羋八子(後世では宣太后と呼んでいる)に太后の号を授けた事例である。漢の時代から、在位中の皇帝の嫡母は皇太后となった。嫡母が既に亡くなった場合だけ皇帝の生母は皇太后の称号を授けられた(例:漢の文帝の生母薄姫)。明・清の時代では、在位中の皇帝の生母と嫡母を並び尊崇して「皇太后(前者を聖母皇太后、後者を母后皇太后)」と呼ぶ。互いに優劣はないが、儀式においては母后皇太后の方が聖母皇太后より格上である。敬称は殿下。 皇太后の位は、親世代という立場に立った皇帝の未亡人に与えられる。したがって、以下が皇太后の位に登ることはなかった場合である。 原則では、皇太后が追号として用いられたことはなかった。皇太后を追号されたのは、漢の武帝の妃で昭帝の母趙婕妤ただ一人である。それは、趙婕妤が武帝に断罪されて処刑される。武帝の皇后としてふさわしくない。したがって、代わりに皇后ではなく皇太后を追号された。 最初の皇太后は前漢の劉邦の皇后の呂雉である(『史記』によれば最初の皇帝秦の始皇帝の后妃は殉死させられたために皇太后に当たるものはいない)。最後の皇太后は清朝の光緒帝の皇后隆裕皇太后である。 日本の皇太后. 日本においては、太皇太后、皇后とならび三后(三宮)のひとつで、太后(たいこう)とも略される。長楽宮(ちょうらくきゅう)を別称とする。 日本では以下のものが皇太后と称された。 神話上は初代天皇である神武天皇の皇后であった媛蹈鞴五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメノミコト)が、息子綏靖天皇の即位と同日に皇太后となったのが初とされ、律令では天皇の母で皇后であった者に与えられるとされた。しかし、文武天皇生母の藤原宮子を太皇太后、光仁天皇生母の紀橡姫を贈皇太后とするなど、皇后を経ていない国母が皇太后・太皇太后と宣下されるようにもなり、嵯峨天皇の皇后橘嘉智子が、嵯峨が弟淳和天皇に譲位するのと同時に皇太后となったり(太上天皇の配偶者。天皇の母ではない)、後冷泉天皇の中宮章子内親王が藤原歓子の皇后立后により皇太后となる等、実態は複雑化した。皇太后には世話をする部署として皇太后宮職が置かれた。 また天皇が即位前に生母が死別していた場合、即位の際に皇太后を追贈する事もあった。例として白河天皇の母藤原茂子は、父後三条天皇の皇太子時代は御息所に留まって早世するが、白河天皇は即位すると亡き母に皇太后を追贈した。そして白河天皇の寵妃の中宮藤原賢子も息子の即位前に早世するが、子の堀河天皇が即位した際に皇太后を追贈された。 江戸時代初期以降は先代の嫡妻をもって皇太后とするのが慣例になり、また中期以降、太皇太后の尊称であった「大宮」を別称とするようになり、皇太后の御所を大宮御所と称した。
明治維新以後は、皇太后は先帝の皇后または天皇の母の称号となり、皇室典範(昭和22年1月16日法律第3号)により皇族(内廷皇族)に含まれ(第5条)、敬称は「陛下」と定められた(第23条)。 また、大宝律令以来三后の班位(身位)は太皇太后、皇太后、皇后の順と定められていたが、1910年(明治43年)制定の皇族身位令(明治43年3月3日皇室令第2号)第1条により、皇后、太皇太后、皇太后の順と定められ、皇后を上位と改めた。 近代以前に皇太后が追号として用いられたことはなかったが、明治以降は孝明天皇の女御(准三宮)で明治天皇の嫡母(形式上の母。生母ではない。)の英照皇太后、明治天皇皇后であった昭憲皇太后に贈られている。英照皇太后は、明治天皇即位に伴い、皇后を経ずして皇太后に冊立された。昭憲皇太后については、本来皇后が追号であるべきとして、明治天皇と昭憲皇太后を祀る明治神宮が1920年(大正9年)に宮内省に、1963年(昭和38年)・1967年(昭和42年)には宮内庁に追号を「昭憲皇后」に変更するよう申し入れたが、認められなかった(昭憲皇太后#追号についても参照)。次代の大正天皇の后貞明皇后以降は、「皇太后」として崩御しても生前の最高位である「皇后」の位で追号されている。 なお、2017年(平成29年)6月16日に公布され、2019年(平成31年)4月30日に施行された、天皇の退位等に関する皇室典範特例法では、第3条で「前条の規定により退位した天皇は、上皇とする。」、4条で「上皇の后は、上皇后とする。」とそれぞれ規定している。すなわち、歴史上、太上天皇の配偶者にも用いられてきた「皇太后」称号を使用せず、史上初の称号である「上皇后(じょうこうごう)」が新たに定められた。 朝鮮の皇太后. 朝鮮王朝までの君主は、天皇や皇帝ではなく国王だったため、皇太后ではなく大妃という。 1895年に大韓帝国が成立したときには朝鮮王高宗が大韓皇帝となったが正室はいなかった。次の純宗の継室の純貞孝皇后が夫君の死後、1966年まで生きたため最初で最後の皇太后である。 ベトナムの皇太后. ベトナムでは丁朝のときに君主号を皇帝としたためその正室は皇后となり、皇太后も現れた。最後の皇太后は保大帝の后、ことモニク・マリ・ユジェニー・ボドー(1946年-2021年)である。 ヨーロッパにおける「皇太后」「王太后」. 訳語として、皇帝の未亡人(英語:)に「皇太后」、先代の王の王妃だった者(英語:)に「王太后」(おうたいごう)を用いることがある。また、王国の元首をすべて皇帝と称してきたかつての儀典上の慣例から、王太后に対して「皇太后」の語が用いられる場合も少なくない。ヨーロッパでは一度帯びた位は原則終身保持できるため、1989年に崩御した、オーストリア・ハンガリー帝国の最後の皇帝カール1世の皇后ツィタ(オーストリア・ハンガリー帝国は1918年に滅亡し、カール1世は1922年に崩御)がヨーロッパ最後の「皇太后」である。
ベーオウルフ(、、慣習的発音 、古英語的発音 )は、英文学最古の伝承の一つで英雄ベーオウルフ(ベオウルフ)の冒険を語る叙事詩である。約3000行と古英語文献の中で最も長大な部類に属することから、言語学上も貴重な文献である。 概要. デネ(デンマーク)を舞台とし、主人公である勇士ベーオウルフが夜な夜なヘオロットの城を襲う巨人のグレンデルや炎を吐くドラゴンを退治するという英雄譚であり、現在伝わっているゲルマン諸語の叙事詩の中では最古の部類に属する。 作品内部にも外部の言及としても成立の時期を特定する記述が存在しないため、必ずしも明らかではないが、8世紀から9世紀にかけての間に成ったと考えられている。 ファンタジーの源流とも言える内容であり、たとえば研究者の中にはJ・R・R・トールキンがおり、その著作『ホビットの冒険』や『指輪物語』への影響はつとに指摘されているのみならず、彼の研究がその後のベーオウルフ研究に与えた影響も大きかった。トールキンが1920年代に行った『ベーオウルフ』の現代英語への翻訳は、生前には出版されることがなかったが、没後の2014年になって出版された。 写本. ベーオウルフを現在まで伝える写本は1000年頃に筆写されたと思われるただ一冊である。この写本は12世紀に筆写された別の写本であるサウスウィック写本と一つにまとめられ、この合本はCotton Vittelius A xvと呼ばれている。古書研究家であるがにこの合本を保有していたのであるが、1731年同図書館の出火に遭い、外側が焦げてしまった。このため徐々に合本の劣化が進むこととなる。1753年には大英博物館へと移管。1783年には古書研究家のとその助手がそれぞれ1部ずつ写しを転写した。元となった合本は火災の損傷が原因となった劣化のため現在では読めない部分が存在するが、ソルケリンらの写しのおかげで消失部分をある程度補うことが可能である。 二人のベーオウルフ. 叙事詩の登場人物の一人、フロスガール王の祖父の名を写本は「ベーオウルフ」と記す。 しかし史実と照らしあわせた結果、この「ベーオウルフ」は「ベーオウ」の誤記とする解釈が主流である。 このデンマーク王ベーオウルフ(ベーオウ)は、叙事詩の主人公である後のイェアータ王ベオウルフとは基本的には別人である。 しかしこの叙事詩の前半部分で語られるグレンデルとその母親の討伐は元来はデンマーク王ベーオウルフの物語であったのかもしれないという説がある。 あらすじ. 『ベーオウルフ』は、主人公の勇士ベーオウルフの若い時を描いた第一部と、それから時代が飛び、老域に入ったベーオウルフ王の最期までを描いた第二部に分かれている。それゆえに二つの物語を一つにしたものではないか、とする声もある。 第一部でベーオウルフは巨人(ドラゴンとも言われている)グレンデルとその母親と戦い、第二部では炎を吐く竜と死闘をかわす。 なお、インパクトが強くかつ謎の多いグレンデルとその親に関しては言及されることが多いが、炎を吐く竜に関してのものは少ない傾向にある。なお、特徴として「財宝を蓄え守っている」「翼を持って空を飛ぶ」「火を吐く」など、現代における典型的なドラゴン像を持ち合わせている。
『ペット大集合!ポチたま』(ペットだいしゅうごう!ポチたま)は、テレビ東京系列にて2000年10月20日から2010年3月26日まで毎週金曜夜7時から放送されていた日本のバラエティ番組(動物番組)。 また、BSジャパン→BSテレ東にて2010年4月6日から2019年3月26日まで放送された『ポチたまペットの旅』シリーズについてもここで述べる。 番組概要. まさお君が1歳の誕生日の2000年10月20日より放送開始。「ようこそ!ペットの国」以来3年半ぶりに復活、流れを組む動物バラエティである。人間と生活をともにしている犬や猫を中心とした愛玩動物(ペット)を主に紹介し、それらロケの様子をスタジオで司会の峰竜太や柴田理恵、その他の出演者がVTRを通して見る趣向が基本的な番組構成となっている。日本国内でのロケが多いが、海外のペット事情も紹介することがある(放送時間の拡大時に多い)。ロケの中でも特に、松本秀樹と「旅犬」が全国を旅する「ポチたまペットの旅」が番組の看板コーナーだった。テレビ東京系列各局やBSジャパン(当時)のほか、放送時間が異なるものの独立UHF局をはじめ、全国で放送されていた。また、CSアニマルプラネットや、アメリカNHKワールドTVでも放送。ハイビジョン制作・一部放送局のみ字幕放送。地上デジタル放送において連動データ放送を実施(ただし、2008年9月19日の生放送スペシャルは字幕放送とともに実施なし)。 2010年3月26日の2時間スペシャルをもってレギュラー放送は終了。その後も「ポチたまペットの旅」コーナーのみは、単独番組としてBSジャパン→BSテレ東にて放送が継続された(詳細は、下記「#BSジャパン→BSテレ東・ポチたまペットの旅」項を参照)。『ポチたま』が放送されていた枠では、終了から1年半後『〜どうぶつ冒険バラエティ〜ワンダ!』が放送開始され、再び動物バラエティ番組となっている。 主なコーナー. ポチたまペットの旅. 番組開始当初からの人気コーナー。「おもしろペット」(ユニークな芸や癖をする犬や猫)を探しに、「旅犬」(ラブラドール・レトリバー)と、タレント・松本秀樹が日本全国を旅するもの。原則的には行く先々で出逢ったペットたちを二人(松本と旅犬)がリポートするが、番組側が事前に連絡を入れてから会いに行くこともある。構成の一人・新田英生による企画、構成。 旅人は若手芸人が集められたオーディションが行われ、参加者で唯一関西弁だった松本が犬との漫才コンビのツッコミ役として抜擢される。このオーディションには、無名だった森三中、バカリズム、いつもここからなども参加していた。 松本は番組開始当初は犬の知識は皆無だったが、このコーナー出演をきっかけにドッグアドバイザーなど犬に関する資格を4つ取得している。 2012年6月には、このコーナーを題材にした映画『LOVE まさお君が行く!』が劇場公開された(詳細は「まさお君#映画」項を参照)。 まさお君が行く!!ポチたまペットの旅. 初代旅犬・まさお君と松本秀樹が出演。 このコーナーのオープニングBGMはNTV『巨泉・前武ゲバゲバ90分!』のオープニング曲が使われた。 2004年6月の鳥取県への訪問で、47都道府県全てを踏破した。
2004年12月、番組で公募したまさお君の「お相手」となるダイアン(ブラックラブラドール・レトリバー)とお見合いし「結婚」。後にダイアンは7匹の子犬を出産。末っ子の子犬に「だいすけ君」と命名した。 台湾でもまさお君がテレビで放送され人気があり、2005年4月には一度だけの海外遠征に出掛けた。中正国際空港(現・台湾桃園国際空港)に着くと、報道陣や現地アイドルの歓迎を受けた。また、台湾のペット情報番組にゲスト出演した。台北市と台南市の公園でいつものようにペット捜索をしようとすると、大勢の地元ファンとペットたちに囲まれる人気だった。台湾では「まさお君」を「雅夫(ヤーフー)」と呼ぶという。 2006年10月13日放送の2時間スペシャルにて、まさお君が最後の旅を完了し、ゴール地点のテレビ東京本社到着をもって引退した。6年間の出演であった。テレビ東京社長より動物では初だとする「感謝状」と骨ガムが贈呈され、番組からは「まさお君専用ログハウス」をスタジオ内に建てる演出がなされた。引退後は息子のだいすけ君が「二代目旅犬」を襲名した。 まさお君は2ヶ月後の同年12月9日に悪性リンパ腫消化管型により病死(7歳)。12月15日放送のポチたまでの訃報に、司会の峰・柴田とともに出演した松本は、テレビ東京の本社スタジオから、まさお君に感謝のメッセージを送った。12月29日の年末スペシャルでは、最後にまさお君の追悼コーナーを設け、松本との出会いから、最後の旅で秋田にいるまさお君の母親エリーに逢いに行くまでの総集編を放送した。 訃報後最初の週末となった12月16日、12月17日の両日、午前10時から午後5時までの期間限定で、テレビ東京正面玄関前には献花台が設けられ、2日間でおよそ6,700人のファンが訪れた。彼が身に着けていた赤いバンダナが付いた遺影と遺骨の周りには、花束や子供たちからの似顔絵が飾られた。 だいすけ君が行く!!ポチたまペットの旅. 引退したまさお君からバトンタッチを受け、息子のだいすけ君が「二代目旅犬」を襲名。新たな旅が始まった。 本コーナーのオープニングに流れている曲は朝日放送 (ABC)『三枝の国盗りゲーム』のテーマ曲である。 名古屋市内で初めて溝に落ちた(まさお君が初めて溝に落ちたところも似たような所)。映像を比べると溝に落ちた時の足、格好まで同じだった。 2006年12月に北海道函館市の朝市を訪れた際、台湾からの観光ツアー客から「だいすけ君!!」と呼ぶ声があり、松本がツアーコンダクターにインタビューすると、すでに「だいすけ編」も台湾のテレビで放送を開始したと答えた。台湾での「だいすけ君」の呼び名は「大介(タァチェー)」だという。 2007年春、だいすけ君も台湾へ初遠征。まさお君と同じく大歓迎を受け、松本も「日本じゃありえない!」と驚いていた。旅の途中、占い師の占いによれば、だいすけ君は「将来彼は父・まさお君を越える大物になるであろう」と言われた。 2007年9月放送の2時間スペシャルで訪問した秋田で、だいすけ君はエリー(まさお君の母親・だいすけ君の祖母)と対面した。 だいすけ君が行く!アメリカ横断5000kmの旅.
通常の「ポチたまペットの旅」を休止して、松本とだいすけ君がアメリカ合衆国に滞在し、2008年10月から2009年2月までの5ヶ月間をかけて、西海岸のサンフランシスコから東海岸のニューヨークを目指し旅する企画。通称は、松坂大輔(レッドソックス投手)のアメリカでの愛称にちなみ「Dice-K in U.S.A.」。2008年9月19日の生放送スペシャルで出発を宣言し、2009年2月27日の生放送スペシャルで、ゴール地点のタイムズスクエアに到着する模様を放送した。 ポチたま芸能人ペットの旅. 2週替わりでゲスト芸能人とその飼い犬が、松本とだいすけ君のコーナーと同様な旅をする企画。 ナゾナゾ探偵団. 2009年4月から開始した、だいすけ君と松本が出演する日帰りロケ企画(アメリカ横断から帰国後、だいすけ君は休養の為にしばらくの間、旅のコーナーへの出演を控えていた)。だいすけ君と松本が探偵の衣装をまとい、探偵役のだいすけ君と助手役の松本が動物に関する様々な調査を行うという内容(2009年7月24日は松本は出演せず、柴田が助手代行として出演)。 だいすけ君マンスリーキャラバン. 2009年10月から開始。アメリカ横断を終えてから旅の企画を休んでいた、だいすけ君と松本が、地方の島や集落に軽のキャンピングカーで滞在する旅企画。1ヶ月間ひとつの場所に滞在し、地元の住人たちと交流する。キャラバンの隊長はだいすけ君で、松本は隊員との設定。2009年10月9日からは岡山県真鍋島、12月25日からは大分県臼杵市、2010年3月5日から番組最終回までは東京都青ヶ島の模様を放送。 BSジャパン→BSテレ東・ポチたまペットの旅. 『ポチたま』から「ポチたまペットの旅」コーナーを単独番組として独立させ、BSテレ東で毎週火曜日の19:00 - 20:00に放送されている後続番組シリーズ。以前は毎週水曜日の20:00 - 20:54に放送されていた。かつてはテレビ東京系地上波各局でも放送されていた。 『ポチたま』ではモノラル制作(モノステレオ放送)だったが、本番組よりステレオ制作(フルステレオ放送)となった。 だいすけ君が行く!!ポチたま新ペットの旅.
2010年4月6日からBSジャパン(当時)にて火曜 20:00 - 21:00の放送枠で、『だいすけ君が行く!!ポチたま新ペットの旅』の番組名で放送開始し、2011年4月から水曜20時台に移動した。またTXN系列の地上波各局でも、2010年4月15日から9月30日までは毎週木曜11:30 - 12:27に、2010年10月8日から2011年4月1日までは毎週金曜11:30 - 12:25に、それぞれ全国ネットの『グッドチャンネル』枠で放送されていた。テレビ東京を除くTXN系列5局では、テレビ東京における『ランチチャンネル』への放送時間変更に伴い、テレビ愛知は2011年4月21日から木曜 12:00 - 12:55に放送時間が変更され、テレビ大阪は2011年4月1日で一旦終了し3ヵ月後の7月1日から放送を再開している(残るTXN系列の、テレビ北海道、テレビせとうち、TVQ九州放送は2011年4月1日を以って終了)。 2011年11月29日、だいすけ君は番組収録で滞在していた神奈川県小田原市で体調を崩し、動物病院で診察を受けたところ、胃捻転が確認されたため緊急手術を受けたが、術後に容態が急変し、同日午前9時過ぎに亡くなった(6歳)。 2012年1月4日までは、既に収録済みだっただいすけ君のロケのストックを放送。それ以降の番組の先行きについては、1月9日の番組公式ツイッターと1月10日の松本秀樹のブログにて、タイトルや内容は未定としながらも番組の継続が明らかにされた。1月11日は「だいすけ君追悼スペシャル」として2時間編成の特別番組となり、だいすけ君が亡くなった「小田原の旅」のロケVTRも放送された。その翌週から2月29日までは「だいすけ君メモリアル」として再放送企画となった。 ポチたまペットの旅. 2012年3月7日より番組名が『ポチたまペットの旅』へと改められた。「三代目旅犬」に、まさお君やだいすけ君の親戚筋に誕生した子犬達を候補としており、子犬達が旅を出来るくらいに成長するまでの間の「臨時旅犬」として、だいすけ君の兄弟の翼(オス)、エルフ(メス)、ロック(オス)と、映画『LOVE まさお君が行く!』でまさお役を務めたラブ(オス)が、交代で番組に出演した。 4月18日の放送にて、3代目旅犬に選ばれた子犬、通称「しろ君」が初披露された。4月25日の放送では、迎えに来た松本とともに、母犬の元を離れ上京する様子が放送され、5月2日の放送で、松本によって「しろ君」を「まさはる君」と命名したことが発表された。 TXN系列のうち、テレビ愛知は2012年3月29日をもって打ち切り、テレビ北海道は2012年4月7日から1年ぶりに放送を再開している。 まさはる君が行く!ポチたまペットの旅→まさはる君が行く!ポチたまペット大集合. 2012年6月6日からは、番組名が『まさはる君が行く!ポチたまペットの旅』に改題され、まさはる君が三代目旅犬として正式にデビューした。 またこの放送から不定期でミグノンの取材や2017年からは盲導犬ストーリーも追加された。
東京スポーツ(とうきょうスポーツ)は、東京スポーツ新聞社(とうきょうスポーツしんぶんしゃ)が発行する日本の夕刊スポーツ新聞である。略称は「東スポ」(とうスポ)。 休日は原則休刊。GWは5月2日 - 4日頃に、年末年始は12月28日頃に250円 - 300円のGW特大号並びに新春特大号(お正月特別号)がそれぞれ発売され、以後GW並びに正月三が日が過ぎるまで休刊。その誤報・ガセネタ・飛ばし記事の多さから、「飛ばしの東スポ」の異名を取る。 概要. 明治時代に東京で創刊した老舗の大衆紙『やまと新聞』の流れを汲む(その後身で帝都日日新聞から改題した現存のやまと新聞の系譜も含む)。同紙最後のオーナーで暴力団からプロレス界まで幅広く顔が利いた右翼の児玉誉士夫がそのままオーナーとなり、初代社長には大映社長で児玉と親交があった永田雅一が就任。児玉の死後は元側近太刀川恒夫が社長になった(現・名誉会長)。そうした経緯から、概ね保守的・右派的な論調を持っている。日付欄は「平成○○年(20○○年)」のように元号(西暦)と表記している。 東スポは、創刊当時からプロレスを大きく扱っており、他に競馬・性風俗関係の記事に強い。 かつては東京都中央区築地の日刊スポーツ新聞社東京本社内に本社・編集局を構え、印刷も同所にある日刊スポーツ印刷社(現・日刊スポーツPRESS)で行われていたが、1988年(昭和63年)6月、旧やまと新聞創刊時の版元日報社の後身毎日新聞グループと提携。毎日の印刷子会社東日印刷が東京都江東区越中島に新築した本社ビルへ移転、印刷委託先も東日印刷に切り替えた。北海道発売分に関しては、2009年6月29日から、北海道北広島市の毎日新聞北海道センターでの現地印刷へ切り替えられたものの、2017年12月28日分をもって北海道における現地印刷や販売は終了した。 販売価格. ・2008年11月5日号(11月4日発行)から、1部売りが120円から130円 ・2014年4月2日号(4月1日発行)からは130円から140円に ・2019年5月21日号(5月20日発行)からは140円から150円に ・2021年9月28日号(9月27日発行)からは150円から160円に ・2023年4月4日号(4月3日発行)からは160円から180円に
・2024年4月6日付(4月5日発行)より、毎週金・土曜日(および祝日の3日間開催前日の日曜日)夕刊で発行する中央競馬の枠順確定紙面(『競馬特別版』)に限り180円から250円に値上げすると発表した。同時に電子版については全曜日、10円安い価格設定になった。なお、九州スポーツは朝刊で発行するため、中央競馬の枠順確定を掲載した紙面が読者に届くのが全域で開催当日の朝となる。このため『競馬特別版』を『競馬ワイド紙面』に改題し、通常通りの価格(160円)で販売する。これに対し、東スポ・大スポの『競馬特別版』は、配送の関係上開催当日朝の売り出しとなる地域であっても、1部売り価格は250円で変わらない。 紙面. プロレスの東スポ. 1980年代半ばまでは、赤い見出しとインクで手が汚れるプロレス新聞として知られたが、1面に来るのはたいてい男子プロレスの記事だった。女子プロレスは最大手興行団体の全日本女子プロレスがデイリースポーツ(神戸新聞社)の支援を受けていたこともあり東スポでは1990年代中頃まで扱っていなかった。 男子プロレスが新日本プロレス、全日本プロレス、国際プロレスの3団体だった時代には、「プロレスのテレビ中継は東スポが独占しろ」の社命のもと、キャップの桜井康雄がテレビ朝日『ワールドプロレスリング』、デスクの山田隆が日本テレビ『全日本プロレス中継』、記者の門馬忠雄が東京12チャンネル(現:テレビ東京)『国際プロレスアワー』の解説をそれぞれ担当。これにより東スポはプロレス報道最大手の地位を確立し、競合紙の『スポーツ毎夕』(旧・萬朝報→東京毎夕新聞)を廃刊に追い込んだ。 1974年(昭和49年)にはプロボクシングの表彰制度に倣って男子3団体の発展に貢献した人物を表彰し、年間最高試合を決めるプロレス大賞を設けた。 東京スポーツにおいてプロレス記事が多い理由は、夕刊紙であるが故に、野球などの記事での試合速報は他社と勝負にならないことと、プロレスは八百長疑惑もあり、デイリー以外の朝刊スポーツ紙が扱わなかったためであった。その後「紫色のにくい奴」「リングを染める鮮血の赤から、王者の風格のパープルへ」をキャッチフレーズに、青紫の見出しの紙面に刷新。 1986年、元横綱の輪島大士が全日プロ入りすると同時に、東スポが印刷を委託していた日刊スポーツも「バトル面」を設け、プロレス報道に新規参入。東スポの優位性は低下した。 1988年、全日本プロレスや新日本プロレスがゴールデンタイムの中継から撤退するなどしてプロレスがマイナー化すると、芸能ゴシップなどが1面に掲載されることが多くなる。 全女の経営が傾きかけた1995年(平成7年)以降、プロレス大賞に女子の部が設けられるなど、東スポの女子プロレスに対する扱いも変化してきている。しかし、2000年代には女子プロレスという種目そのものの衰退に伴い、最高賞である「女子プロレス大賞」が5年連続で該当者なしとなる等問題も抱えている。 競馬トウスポ. 競馬に関しては、1970年代から80年代に本紙の特別版としてレースポの名前で独立して発行したこともあるなど古くから充実した内容を誇る。
多様な競馬コンテンツは定評があり、紙面の構成が競馬中心になる週末は平日の4倍の部数が売れている。 独立発行が取りやめられた後も『競馬トウスポ(ダイスポ)』の名前で抜き取って使えるように設計されている。中央競馬の全レース(最大36レース)の馬柱が掲載され、それを掲載する開催前日付けは競馬面に限って、かつては競馬専門紙に準ずるやや上質な紙を使用していた(現在は他の紙面同様の普通新聞紙)。月曜や祝日の翌日に開催される場合、通常は夕刊フジ・日刊ゲンダイと共に休刊する日曜・祝日にも発行する(1部売り価格は金曜日・土曜日と同じ250円)。地方競馬やそれ以外の公営競技についても、ナイター競走中心に予想を掲載することがある。 また、放送系メディアで行われる競馬中継にも古くから解説者を派遣する。テレビ東京・BSテレ東『土曜競馬中継』→『ウイニング競馬』では1970年(昭和45年)のスタート当初から、ラジオ日本『土曜競馬実況中継』は2020年9月12日から、東スポ・大スポの競馬担当記者がレギュラー出演。他にラジオNIKKEI『中央競馬実況中継』にも不定期に記者を出演させている。 前述の通り2024年4月6日付(4月5日夕刊)から、土・日曜付け(金・土曜発売の夕刊。及び祝日が含まれた3日間開催実施日の月曜付け・日曜夕刊)を『競馬特別版』と銘打ち、1部売りを250円に値上げした。これに伴い、中央競馬で1日に開催される最大36レースすべてについて専門紙並みの情報量を網羅した内容に一新された。 なお出馬表は同じくS・Tビルに本社を置くスポニチと同一の構成で、東日印刷が制作する。 飛ばしの東スポ. 1991年4月、ビートたけしが客員編集長に就いてからは、浅草キッドから「日付以外は全て誤報」と言われるほど娯楽性を重視しており、「“ガセ”」「飛ばしの東スポ」という異名も持つ。TBSテレビの長寿番組『アッコにおまかせ!』では「“エキサイト新聞”東スポ」と称される。しかし、2000年代に日本人アスリートの海外進出が本格化するにあたり、時差の関係上日本のスポーツ紙の中で最も早く国外スポーツの試合結果を伝えられるケースが多いという特性を生かし、野球のメジャーリーグ・ゴルフのPGAツアー・欧州各国のサッカーリーグなど欧米のスポーツに関する記事に力を入れるようになっており、娯楽性の強いゴシップ記事は減少傾向にある。
「プレスリー生きていた?」「マドンナ痔だった?」「落合家チンポ丸出し放送」「人面魚重体脱す」「フセイン米軍にインキン大作戦」「ダイアナ大胆乳」「ネッシー出産」「プロレス初 小橋ゲーセン突入特訓」「象じゃない ネッシー怒る」「地球の電気を泥棒か 電線に止まったUFO」「ツチノコ発見」「SMAP解散か」「前田敦子ヌード写真集」「衝撃妖精写真初公開 15センチおじさん」「今井絵理子議員ノーパン疑惑」など、1面の奇抜な見出しが特徴である。これらの見出しの下には小さく「?」「か」「も」「説」「絶叫」などの語句・記号が書かれ濁されていることが多いが、そうした見出しに関しては、売店や新聞スタンドに陳列されている状態や折りたたんである状態では見えないよう、紙面のレイアウトが計算されている。海外宇宙人やクリエ―チャーの記事のほとんどはウィークリー・ワールド・ニューズからの流用であった。 なお、九州スポーツは朝刊であるため、みなと山口合同新聞社に編集委託をしたときは西鉄→太平洋クラブ→クラウンライターライオンズ→ダイエー→ソフトバンクホークスといった福岡市に本拠地を置くプロ野球チームの話題を中心に、一般スポーツニュースを1面に持ってくることが多かったが、大阪スポーツ(高速オフセット堺工場)への委託以後は、他の各地域版と同じように、飛ばし記事を載せる傾向が増えている。 裁判. なお、梨元勝によれば、自らが寄稿した新聞・雑誌記事の信憑性を巡る損害賠償請求訴訟で敗訴した場合には、「通常なら損害賠償の全額を(記事を掲載した)会社側が支払ってくれるが、東スポは好きなことを書かせてくれる代わりに折半で負担させられる」システムになっているという。こういった点からも、記事の内容について、よく言えば執筆者の自主性を重んじている、悪く言えば面白半分の信憑性の乏しい記事でも執筆者任せで最低限のチェック機能しか置いておらず、刺激的な飛ばし記事を繰り出してでも販売部数を優先する、東スポのスタイルを窺い知ることができる。 スクープ. ゴシップ系記事や芸能人の動向などにまつわる記事でも稀に事実を記載することがある。また、それが大きなスクープであることも多いが、上述の様にスクープに見せかけた飛ばし記事が多い紙面体質ゆえ、「東スポの記事だから」と冷淡に扱われることが多く、そのスクープが東スポ独占状態の時点では世間を騒がせることは少ない。 番組表. 東スポの場合は2018年3月まで、テレビ欄は社会面の下に掲載していた。東スポの場合、在京テレビ局の番組表のみ掲載、他の東スポ管轄エリアのテレビ局の番組表は掲載されていなかった。 大阪スポーツ(近畿圏のみ)もテレビ欄を掲載していたが、東スポと同時期に終了させている。 朝刊である九州スポーツのみ、発行日付当日の番組表を終日掲載している。中京スポーツはもとから収録していない。 東京スポーツのテレビ番組欄は、発行日当日と翌日のそれぞれ18時から深夜までの番組を掲載していた。 物販強化. 2022年、社員350人のうち約80人が退社した中、生き残りをかけて物販強化に取り組んでいる。 発行地域. 発行する地域によって題字が異なる。朝刊で発行されている九州以外、夕刊紙ながら、配送の事情により、他の朝刊紙とともに翌朝に扱い店の店頭で販売されている地域もあるほか、境界付近では異なる地域の東スポ系新聞が併売される場合もある。
特に東北は、他のスポーツ紙が現地印刷を始める中、配送距離が東スポ本社から600km以上の地域があるなど、スポーツ紙の配送体系では異例の長距離配送となっている。ちなみに、中京スポーツ・大阪スポーツ・九州スポーツの発行範囲は、印刷工場からの輸送距離が500km以内にほぼ収まっている。 東京スポーツの1面題字下には2007年秋から「TOKYO SPORTS PRESS」という英字表記が付くようになった。中京スポーツ、大阪スポーツ、九州スポーツの題字下には、英字表記ではなく「東京スポーツグループ」と表記されている。 宅配に関しては、一部地域は宅配を行っておらず、これらの地域では駅売店やコンビニなどにおける即売のみとなっている。月極申込もかつては本社が直接行っていたが、現在は発行地域別に東スポ・中京スポ・大スポ・九スポに直接申込む形をとっている。東スポはかつては夜間における電話受付は編集部が担当していたが、現在は販売部が日中のみ受付を行っている。また、東スポ・中京スポ・大スポは2ヶ月以内、九スポは1ヶ月以内のバックナンバーも扱っている。 電子版は東京スポーツのみの配信となり、他の系列3紙(中京スポーツ、大阪スポーツ、九州スポーツ)は配信されず、休刊日も東京スポーツに準ずる。また、那覇空港内のコンビニや売店などで、発行日当日に東京から空輸されたのを販売している。なお、輸送コストがかかるため、他地域の販売価格に50円加算となる。 2020年9月5日までは、セブン-イレブン限定で、発行日の翌日にマルチコピー機で発売する4ページのモノクロ要約版「東京スポーツセレクト」を1部350円で発売していた。 前述のとおり、販売から撤退した北海道では、かつては系列紙「北海道スポーツ」も存在した(道新スポーツとは関係がない)。以前は東京から輸送していたが、2009年6月29日から2017年12月28日まで、北広島市の毎日新聞北海道センター(毎日新聞・スポーツニッポンの印刷工場)で東スポの現地印刷を行っていた。北海道印刷分も公営競技、テレビ欄などは差し替えず、東京のものをそのまま掲載していた。北海道における現地印刷開始後も宅配は行っていなかったため、駅売店やコンビニなどにおける即売のみとなっており、札幌都市圏・石狩振興局管内では発行当日、それ以外の地域では翌朝の販売となっていた。2017年12月28日号(札幌都市圏・石狩振興局管内は当日発売分、その他の地域は29日発売分)をもって北海道での販売を終了した。販売終了の理由として「現地印刷を機にファンが拡大したものの、印刷費用が想定以上に多くかかってしまった」としている。電子版や郵送での定期購読ではその後も入手可能だが、2023年8月から北海道内のローソン限定で『競馬特別版』の中央競馬関連記事のみ抜粋したコンビニプリント版を発売している。ただし、電子版の1部売りよりも高い価格設定になっている。 また、2020年10月1日から静岡県では東スポ、中京スポ共に当日中の早版配送を取りやめ、最終版を翌朝に売り出す形とした。このため熱海駅以遠JR東海管内の東海道本線主要駅と伊東線伊東駅の構内売店では東スポの販売自体が終了した。 事業所・印刷工場.
東スポ系地域スポーツ紙は、営業・販売部門の事務所(支社)を大阪・名古屋・福岡に置き、中京スポを除く各紙の印刷をその地域の毎日新聞系工場に委託する。2022年4月までに大スポ・中京スポ・九スポの紙面(各販売エリア内の公営競技面や地域情報面等)を東京本社で一括して編集・制作する再編を行った。 東京スポーツは、1988年8月に現在の東日印刷(毎日新聞グループ)に委託する前は、朝日新聞グループに属する日刊スポーツ新聞社の子会社、日刊スポーツ印刷社(現・日刊スポーツPRESS)に印刷を委託していた。 大スポは、現在の高速オフセット(毎日新聞グループ)に委託する前は、朝日新聞グループの大阪日刊スポーツ新聞社内に編集部を置き、印刷は同所にあった日刊オフセット(現・朝日プリンテック)へ委託していた。大スポの事務所(編集・広告)は大阪市北区梅田の大阪駅前第3ビルに置いていたが、東スポと毎日新聞グループとの提携関係に合わせて、堺市堺区にある毎日の印刷子会社高速オフセット堺工場ビルに移転した。 中京スポは、1992年までは編集部門が名古屋市中村区の中部経済新聞社(中部経済新聞)本社ビル(現・名古屋クロスコートタワー)にあり、印刷も同社の名古屋市中川区にあった工場で行われていたが、日刊ゲンダイ中部版の発刊と同時期に委託先を中日高速オフセット印刷(中日新聞グループ)へ切り替えた。 九スポは、2020年3月まで編集・制作部門を山口県下関市のみなと山口合同新聞社(山口新聞・みなと新聞)内に置き、印刷は同社と毎日新聞九州センターへ委託していたが、2020年4月から編集・制作を関西支社、印刷も毎日新聞九州センターへそれぞれ一本化。九州支社は営業部門のみとなって福岡市へ移転した。 2022年春、東スポグループの紙面編集を東京本社にて一括して行うため、大スポ・中京スポ・九スポの編集・制作部門を東京本社に統合・集約した(九スポは再移転)。大スポ(関西支社)は、独自の編集部(編集局関西分室。九スポの紙面編集・制作も担当)を東京本社編集局に統合・集約するなどの再編を行い、事務所も堺市堺区の高速オフセット堺工場から大阪市北区梅田の大阪駅前第1ビル4階に移転し、実質的に営業・広告部門のみとなった。なお、各傘下の地域版の現地での印刷委託は従来同様で変更はない。 印刷工程.
2010年頃までは、中央競馬の枠順確定や、欧米のプロスポーツの結果に合わせて一日最大三版の体制が組まれていた。中央競馬の開催前日となる金曜日と土曜日は、午前10時以前に印刷され、木曜日の15時45分頃に発表された出走馬決定表を馬名のアイウエオ順に掲載した『A版』と、午前10時頃に発表された枠順・馬番号入りの確定出馬表を掲載する『B版』、そしてB版印刷完了後に入ってきたニュースを掲載した『C版』という具合であった。このため競馬開催前日には、どうしても早刷り版を並べる必要がある東京都心のごく一部の駅売店を除いて、『A版』の流通を極力絞るようにしていた。なぜなら競馬は枠順・馬番号が決まらなければ、勝馬投票券を発売することができず、ファンも同様に予想を立てられなくなるためであり、過去には出走馬決定表をそのまま確定出馬として発売してしまった専門紙『ぐりぐり◎』が創刊からわずか3週間で廃刊に追い込まれた例もある。 金曜日と土曜日発行分を『競馬特別版』と銘打った2024年4月からは、全曜日で一日一版体制に移行した。これは、『競馬特別版』を枠順未確定の状態で送り出すことはできないと判断したためで、翌日に行われる中央競馬全競走の枠順が確定した後に印刷を始める体制に改められた。 東京スポーツの人物. 現在の寄稿者. 競馬関連. 九スポでの掲載は一日遅れる。三浦はJRA所属の現役騎手、蛯名は2021年(令和3年)2月まで騎手、同3月からは調教師であるため、騎乗停止・海外遠征等の場合は休載となる。 ミス東スポ. 2012年から開催される東京スポーツ主催のミスコンテスト。例年4月から年末まで撮影会等の集客数を競い合い選出される。受賞後は翌年のプロレス大賞授賞式を皮切りに、1年間東スポの関わる競馬やボートレースなどのイベントに広く関わる。
サンフランシスコ湾(サンフランシスコわん、)は、アメリカ西海岸に位置する湾。アメリカ合衆国カリフォルニア州にある。太平洋とゴールデンゲート海峡で接続し、湾内には寒流が流れ込む。サンフランシスコ湾の湾岸地域はサンフランシスコ・ベイエリアと呼ばれる。 地形. サンフランシスコ湾は南北に長く、長さは約60キロメートル。最大幅は約15キロメートルで、南北の中間点より北側にある。サンフランシスコ湾の北側にはが広がるが、その接合地点よりやや南の西岸にサンフランシスコ湾と太平洋を繋ぐゴールデンゲート海峡がある。 サンフランシスコ湾と太平洋は、南北に長いサンフランシスコ半島によって隔たれており、ゴールデンゲート海峡がサンフランシスコ半島の北端になる。サンフランシスコ湾の西岸を囲むように伸びるサンフランシスコ半島は、本土とサンフランシスコ湾の南端で結合している。サンフランシスコ湾の東岸から東へは、本土の大地が広がる。 環境. 湾内にはカリフォルニア海流という寒流が流れ込み、水温が低く潮流が早い。湾外の太平洋(カリフォルニア沖)では、南から流れる暖流とカリフォルニア海流(寒流)がぶつかり、好漁場となっている。太平洋岸にはアシカが集まり、湾内を泳ぐこともある。一帯にはカリフォルニア州内77%の三角江の湿地があり、多くの種類の植物と1,000種以上のシギチドリ類、定住性または回遊性の魚類などの動物が生息している。2013年にラムサール条約登録地となった。 ゴールドラッシュの頃には、東部の山地をぬって湾内に流れ込む河川により、水銀などの汚染物質が湾内に流れ込み、湾内が汚染された。現在は湾内でサメやエイ、カニなどが採れる。 湾内にはサクラメント川などが流れ込むが、霧がかかることが多い。 橋. サンフランシスコ湾には東西に架かる橋が3つある。北からサンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジ、、である。サンフランシスコ湾の北部のゴールデンゲート海峡には、南北にゴールデンゲートブリッジが架かる。サンフランシスコ湾の北部に繋がるサンパブロ湾とグリズリー湾にはさらに3つの橋がほぼ南北に架かる。また、サンフランシスコ湾を東西に横断する地下鉄 (BART) 用の海底トンネルがある。サンフランシスコ湾の南北に架かる橋は無い。 活用. 海運の要所とされ、貨物船や客船が行き交う。ウォータースポーツも盛んに行われている。 ユネスコが支援するフランスのNGO世界で最も美しい湾クラブに加盟している。 歴史. フアン・ロドリゲス・カブリリョは、1542年にカリフォルニア沿岸をはじめて探検したヨーロッパ人として知られるが、サンフランシスコ湾の存在に気づかずに通り過ぎている。サンフランシスコ湾は入り口が狭いため、探検者は何百年にもわたって湾を見逃してきた。 最初にサンフランシスコ湾を目にしたヨーロッパ人は、フランシス・ドレークの水先人だったデ・モレーナ (N. de Morena) であったと考えられている。彼は1579年にドレークによってサンフランシスコ湾の北にある現在のドレーク湾に置き去りにされ、メキシコまで歩いて帰ったので、その途中サンフランシスコ湾を目にしたに違いないが、何の記録も残していない。
レトルト食品(レトルトしょくひん)は、気密性及び遮光性を有する容器で密封し、加圧加熱殺菌を施した食品である。広義には缶詰も含まれる。食品業界では加圧加熱殺菌食品全般を指す。なお加圧加熱処理(装置)をレトルトと呼ぶ。 レトルトパウチ食品とは、特に袋状の容器に密封したものを指す。日本ではこれを「レトルト食品」と呼ぶことも広く定着している。本項ではレトルトパウチ食品について説明する。 なお、レトルトパウチ(食品)は英語でも retort pouch (foods) と呼ばれるため、和製英語ではない。また、同じ意味で boil-in-bag (foods) が使われる。語源はオランダ語で「加圧過熱殺菌をする釜」を指すことばである。 定義. 日本では「レトルトパウチ食品品質表示基準」(平成12年12月19日農林水産省告示第1680号)によって、「レトルトパウチ食品」について「プラスチックフィルム若しくは金属はく又はこれらを多層に合わせたものを袋状その他の形に成形した容器(気密性及び遮光性を有するものに限る。)に調製した食品を詰め、熱溶融により密封し、加圧加熱殺菌したもの」と定義されている。 起源. レトルトパウチ食品は、1950年代アメリカ陸軍補給部隊研究開発局が缶詰にかわる軍用携帯食として開発したのが始めである。大量の兵士らに食糧補給を実現するため缶詰の重さや空缶処理の問題を改善するのが狙いであった。その後、1960年代アポロ計画で宇宙食に採用されたことで多くの食品メーカーに注目される。しかし、アメリカでは当時既に一般家庭に冷凍冷蔵庫が普及しており、各種の冷凍食品が発売されていたことからまったく普及しなかった(パッケージの貼り合わせに接着剤を用いているため、アメリカ食品医薬品局より認可が下りなかったのも原因の一つである)。 一方日本では、当時は冷凍冷蔵庫の普及が遅れていたため、常温で流通・保存できる缶詰に替わる新しい加工食品として期待がかけられた。1968年(昭和43年)2月に大塚食品工業(現・大塚食品)より、世界初の一般向けレトルト食品(レトルトカレー)として「ボンカレー」が、地域限定ではあるが発売された。翌1969年(昭和44年)4月には、パッケージングを改良したうえで全国発売されている。ボンカレー発売当時の宣伝文句は「3分温めるだけですぐ食べられる」で、この言葉からも分かるように保存性よりも簡便性を前面に打ち出しており、インスタント食品の一種として普及していった。 なお、数多くのレトルト食品が販売されるようになってからも、売上高の3分の1以上はレトルトカレーで占められている。カレーには多くのスパイスが使われており、レトルト臭と呼ばれる加熱不快臭が発生しても食感に影響しにくいためである。 軍隊・自衛隊での採用. 本来の目的であった軍用糧食としては、アメリカ軍と自衛隊では広く利用されているが、缶詰に比べて長期保存性に劣ることや衝撃や破損に弱いといった欠点がある。また、野戦用の携行食としては「パッケージを直火で温めることができない(沸かした水で湯煎するか化学加温剤が必要)」という難点もあるため、軍用携行食としては世界的に見てそれほど普及はしていない。
自衛隊でもレトルトパウチと缶詰の携行食が併用されていたが、2016年(平成28年)に陸上自衛隊が戦闘糧食を従来の缶詰タイプ(戦闘糧食I型)からレトルトパックタイプ(戦闘糧食II型)へ全面的に切り替えることを決めた。これはレトルトパウチの耐久性が向上し、缶詰のI型と同等の運用ができると判断されたためである。同年度限りで陸自への納入が終了した。 パッケージング. レトルトパウチ. レトルト食品を封入している袋のことを、レトルトパウチ(以下、パウチと略す)と呼ぶ。パウチは、一般的に食品側にはポリプロピレン、外側にはポリエステル (PET) といった合成樹脂やアルミ箔を積層加工(ラミネート加工)したフィルムでできている。空気や水分、光を遮断し、内部の食品を密閉するための工夫である。 食品表示としては、遮光性の素材を使用したパウチ袋を使用しないと、「レトルトパウチ食品」とは表記できない。遮光性のないパウチ袋の製品は、「加圧加熱食品」と表記する。 加圧加熱殺菌. 原則として、容器内部の食品中央部において120℃で4分間、またはそれと同等の熱がかかる状態に加圧加熱して殺菌する(内容物によっては温度・時間は調整される)。これにより、一般的な食中毒細菌の中で最も耐熱性の高いボツリヌス菌を殺菌できるとされる。ただし、より耐熱性の高い菌は存在するので、無菌となるわけではない。長期に保存すると食品の風味を損なうなどの経年劣化は完全には抑制できない。 業界内では、殺菌効力を表す数値F値(120℃1分で、F値=1)で、通常、F値が5 - 10程度の殺菌が加えられている。 調理方法. 従来のレトルトパウチ食品における調理は、湯煎(沸騰した湯に数分程度浸して加温する)を用いるか、内容物を食器に移し替え、電子レンジで加熱する方法が一般的な調理方法(無論、内容物を取り出し、フライパンや鍋などで温める方法もある)として記載されている。特に包装材にアルミニウムが使用されているものは、袋のまま電子レンジを使用することはできない。 しかし、電子レンジに対応したレトルトパウチ食品が一般化している。包装材にアルミニウムなどの金属類を使用せず、袋内で発生した水蒸気を抜き取る蒸気抜き機構(通常時や湯煎調理時には密閉を保つ)を持ち、耐熱性・保存性に優れた特殊フィルム素材が開発されたことで実現した。また、保存期間の短さがネックになっていたが、1年以上保存が可能な商品も開発されている。
南加木屋駅(みなみかぎやえき)は、愛知県東海市加木屋町にある名古屋鉄道河和線の駅。駅番号はKC03。 快速急行停車駅である。特急はヶ丘駅と同様、朝に名古屋方面の一部列車が停車し、夕方(名鉄名古屋駅を15時以降に出発する列車)以降の内海、河和行特急は全て停車する。 歴史. かつては隣の高横須賀駅との間に加木屋駅があったが、加木屋駅が廃止されても駅名は改称されず現在に至っている。 なお、名鉄と東海市は2020年(令和2年)2月に西知多総合病院へのアクセス向上などを目的に、高横須賀駅との中間地点付近に新駅を設置し、2023年(令和5年)に開業することで合意し、基本協定を締結している。新駅は2022年12月22日に駅名が加木屋中ノ池駅となることが決定し、2024年3月16日に開業した。 駅構造. 8両編成対応の相対式2面2線ホームを有する地上駅で、太田川駅管理の無人駅である。2023年12月22日までは下り線ホーム出入口側において駅係員が窓口業務を行っていた。改札口は各ホームの知多半田寄りにあり、自動券売機(継続manaca定期乗車券の購入も可能ではあるが、名鉄ミューズカードでの決済は7:00~22:00に限られる)、自動精算機を備えている。また、跨線橋でホーム間の行き来をすることができる。 利用状況. 「東海市の統計」、「移動等円滑化取組報告書」によると、近年の1日平均乗降人員は下表のとおりである。河和線の駅では太田川駅、知多半田駅に次いで3番目に多い。 駅周辺. 主に住宅地となっている。 駅南側には、商店も多く見られる。大府市との境界にも比較的近い。 隣の駅. ※ かつては加木屋中ノ池から当駅の間に加木屋駅が存在した(1944年休止、1969年廃止)。
『釣りバカ日誌』(つりバカにっし)は、作・やまさき十三、画・北見けんいちによる日本の釣り漫画で、1979年から小学館『ビッグコミックオリジナル』で連載され、1980年から小学館ビッグコミックスより刊行されている。 また、実写映画化、テレビアニメ化、実写テレビドラマ化もされた。略称は「釣りバカ」。 概要. 万年ヒラ社員(営業職)のサラリーマンであるハマちゃんこと浜崎伝助は、上司の佐々木課長に教わった釣りにすっかりハマってしまい自他共に認める「釣りバカ」に。ある日ハマちゃんはひょんなことから知り合った「スーさん」という初老の男性を釣りに誘う。しかしこのスーさん、他ならぬハマちゃんが勤める資本金50億円の中堅ゼネコン会社『鈴木建設株式会社』の社長・鈴木一之助だったのである。この2人の奇妙な友情を中心に、ハマちゃんの釣りバカぶりがもたらす珍騒動(に振り回される佐々木課長ほか)を描く人気シリーズである。 第28回(昭和57年度)小学館漫画賞青年一般部門受賞。2020年5月時点で累計発行部数は2600万部を突破している。 サザエさん方式で物語が進められているが、鯉太郎の成長過程は描かれている。 作画担当については北見の他にも何人かの候補で検討を行っていた頃、担当編集である林洋一郎の草野球チームの対戦相手に助っ人として北見がいたことからそれも何かの縁ということから決定となった。 あらすじ. 鈴木建設営業三課に所属する浜崎伝助は愛妻家で真面目だが、無趣味で出世欲に欠けるうだつが上がらないサラリーマンだった。出世競争に出遅れた伝助はいまや同期で唯一のヒラ社員となってしまい、妻のみち子からも「出世のために趣味の一つでも覚えて上司に取り入ったらどうか」と苦言を呈される有様であった。 現状を見かねた上司の佐々木課長は伝助を海釣りに誘い、釣りの手ほどきをする。初めは全く釣りに興味を持たなかった伝助だが、次第に釣りの楽しさを覚えていく。ところが今まで無趣味だった反動なのか、次第に会社内で堂々と釣り新聞を広げたり妻の出産と釣りを天秤にかけるなど、趣味を通り越した「釣りバカ」へと変貌を遂げてしまい、性格も人情にこそ篤いがざっくばらんで常識外れな言動をするように変わってしまう。結果としてますます出世から遠ざかってしまうが、当の伝助は「出世すると釣りをする時間が減る」と放言し、佐々木は心労で日々胃を痛める羽目になった
ある日、伝助は会社で出会った老人鈴木一之助に請われて一緒に釣りに出かけ、手ほどきをしたことで一之助の「釣りの師匠」となる。この一之助こそ、実は伝助が勤める鈴木建設の泣く子も黙る鬼社長であった。だが伝助は自社の社長にも関わらず顔を覚えていなかったため、気づかぬまま対等に「スーさん」「ハマちゃん」と呼び合う仲になる。意気投合した二人は盛んに釣り勝負へ出かけるようになるが、いつしか一之助は自分が社長だと伝助にバレることで関係が変わることを恐れるようになる。しかし、あるきっかけから一之助は意を決して伝助に自らの正体を明かしたものの、予想に反して伝助の態度は全く変わらなかった。釣りは「公私の私」であるとして、業務外では「鈴木社長とヒラ社員浜崎」ではなく「スーさんとハマちゃん」として、二人は今後も釣り勝負に付き合うことになる。 映画(シリーズ). 1988年から2009年にかけて松竹系にて、1995年・1999年を除き毎年1本新作が公開された。全22作品の脚本を山田洋次が手がけ、『男はつらいよ』シリーズと並び松竹を代表する国民的映画シリーズでもあった。本稿では1作目と全体について記述し、シリーズ各作品については該当の項を参照のこと。 『男はつらいよ』の同時上映作品として1988年12月に第1作『釣りバカ日誌』が公開され、松竹もそれ程力を入れてはいないB面映画であったものの、公開後の評判も良く、特に渥美清の逝去により『男はつらいよ』シリーズが終了となってからは、松竹を支える看板映画シリーズとして製作された。当初は第1作のみで完結する予定でラストもそのように作られているが、シリーズ化により第1作と2作以降は繋がらなくなっている。主演の西田・三國両名の高齢化もあり、2009年12月公開の第22作『釣りバカ日誌20 ファイナル』をもって終了した。 地上波によるテレビ放送はTBS系列が最新作(地上波初公開)の優先的放送権を持っているが、それ以外の作品は民放5系列全てで放送されている。また、アメリカ合衆国、カナダ、プエルトリコを放送対象地域とするNHK国際放送テレビジャパンが数作品を放送している。 原作より「釣り」に対する描写は薄められ、西田敏行演ずるハマちゃんのベタなキャラクターと三國連太郎の渋めのスーさんとのやり取りがいい味を出している。ハマちゃんとスーさんの魅力を引き出す重要なキャラクターであるハマちゃんの妻・みち子さん役はシリーズ1〜6、および7作目『釣りバカ日誌スペシャル』までを石田えりが演じ、シリーズ7以降は浅田美代子が演じている。また、浜崎の家は(一戸建て(2~10)、マンション(1)(14)、アパート(11))など毎回変わっている。ただ、全作共通しているのは隣にハマちゃんの親友でもある釣り舟屋「太田屋」を営む太田八郎が住んでいる事である。また、鈴木建設の外観や営業三課の内装も作品ごとに異なっている。 『男はつらいよ 寅次郎の縁談』に西田敏行がハマちゃん役で1シーンのみカメオ出演したことがある。 映画(第1作). 1988年12月24日より松竹系にて公開された。 あらすじ(第1作).
鈴木建設の四国支社高松営業所に勤める浜崎伝助こと「ハマちゃん」は3度の飯より釣りが好き。出勤前に大きなクロダイを釣った日に東京本社への「栄転」を営業所長から命じられる。しかし、当初はハマちゃんは「東京では釣りができない」と断り消極的だったが、妻のみち子さんに「東京湾にも魚がいる」と説得され、船宿の向かいのマンションに引っ越し、まずは一段落の合体。 初日から遅刻ばかりで社内ではあくびばかりの毎日を送るハマちゃん。近くの食堂で憂鬱な顔をした男と出会う。出会ったばかりの男に「こんな風にヒラメを骨だけ残して食べるものだ、それが魚に対する供養」だと残りを食べてあげる(みち子さんと知り合ったのも同じパターンだった)。連絡先を通じて気晴らしにと釣りに誘う。しかし、この男がワンマン社長の鈴木一之助だった。 船釣りに登山の格好で現れた男を「スーさん」と呼び、東京湾を楽しみ、初めてながら大漁になる。夜はみち子さんから気さくな歓迎を受け、初めての本格的な釣りに疲れて眠り込み、そのまま浜崎の家でお泊まり。 数日後にハマちゃんの勤めている会社に連絡しようとして秘書から我が社の社員だと知る。その日の自宅で「社長の顔を知らないとは」と妻に愚痴ると、彼女は「背中丸めて、陰気な顔をしてるから。不幸せな老人と思われても仕方ない。でも、その老人を優しく労ってくれたんでしょ」と言う。 次の日曜日、再びハマちゃんと投釣りに出掛け、再び浜崎家にお世話になる。問題児のハマちゃんは「世の中一生懸命な奴ばかりじゃつまらない。会社だってアジもメバルもサバだって、いろんな人がいるから面白い」というのに妙に説得される。ハマちゃんはスーさんを食うに食わずの孤独な老社員だと思い込んで、仕事を世話してあげるが、スーさんは社長であることを明かさずに断る。しかし偶然、会社に訪れたみち子さんはスーさんの素性を知って「私たちをだましていたのね」と涙ぐむ。スーさんはそれでも、「公私を別にして、友人として今後とも付き合いをしてほしい」とハマちゃんに電話をする。しかしハマちゃんは「俺も辛いけど、この関係はスーさんのためにならないよ」と関係を絶ってしまう。 その後、ハマちゃんの突然の栄転もコンピューターの入力ミスと分かって、定期異動の際に高松営業所へ戻ることになる。人事部長が事情を説明すると、「ぜひ高松に戻りたい」と言ったハマちゃんにガッカリするスーさんだが、「せめて役付で戻してやれなかったのか?」と問いかける。すると人事部長は係長の昇進を約束したが、浜崎はこれを断り、ヒラのまま高松営業所に転勤することになったと答える。 別れの言葉も無く、スーさんとの別れを惜しんだみち子さんは新幹線から電話をして「ひどい事言ってごめんね」と謝罪し3人のわだかまりも溶ける。 キャスト(第1作). 主要人物は#レギュラーキャストを参照。 テレビアニメ. 2002年11月2日から2003年9月13日までテレビ朝日系列(フルネット24局)にてテレビアニメが放送された。放送時間は毎週土曜19時30分 - 20時00分であり、同時間帯でアニメが放送されるのは『忍ペンまん丸』第8話以来5年ぶりである。テレビ朝日と東映アニメーションの制作による事実上の前番組は2002年9月まで、ローカルセールス枠で土曜朝9時55分に放送されていた『ののちゃん』である。
劇場版映画を制作する松竹が本作の映像作品化をアニメ作品やテレビ番組も含む形で独占されていたため、同業企業の東映子会社である東映アニメーション制作でありながら、松竹も製作協力として東映本体と共にクレジットされていた。同業同士の協力関係となっていたため、アニメ映画版が製作されたことは無かった。 北見はアニメ化をするとアニメ終了とともに原作の人気も無くなり、連載が終了となってしまうことを危惧してアニメ化には反対の立場を取ってきたが、自分も61歳となり後を気にすることがなくなったことからアニメ化を承諾した。当初は伝助が最初から釣りバカである点や、放送時間がゴールデンタイムでかつ子供向けに改変製作されている関係から「合体」描写が無い以外はほぼ原作に沿っていたが、途中から伝助の仕事風景よりは釣りにうつつを抜かしながらも妻と子供を大事にする伝助の姿や、浜崎一家の仲の良さをメインにしたオリジナルの単発ストーリーが中心となっていった。また、飼い犬・ハゼタロウの声が途中から川津泰彦から進藤尚美に変更され、本編開始前には魚偏の漢字の読みを出題する「おさかな漢字クイズ」が設けられた。 当時テレビ朝日で放送されていた同じ東映の特撮作品『爆竜戦隊アバレンジャー』とのコラボレーションとして、双方にゲスト出演したストーリーもあり、本編では伝助はアバレンジャーのことはそんなに詳しくなく、アバレンジャーとの共闘は夢の中であったが、『爆竜戦隊アバレンジャー』では本編でファンになったため彼らのことを知っており、テレビから抜け出し、本当に彼らと共闘している(アニメでは鯉太郎が『アバレンジャー』のファンという設定があり、アバレンジャーも釣りバカ日誌のファンという設定になっている)。これは、テレビ朝日プロデューサーの中嶋豪が両番組を担当していたことから実現したものである。この他、ゲストキャラクターにはイアン・ソープ(テレビ朝日が中継を行なっている世界水泳選手権の宣伝を兼ねた出演)やアザラシのタマちゃんも登場していたほか、主題歌は20話以降、当時テレビ朝日系列で放送中だった『Matthew's Best Hit TV』のマシュー南が担当していた。 2008年11月から大鵬薬品『ソルマック』のCMキャラクターとして約5年振りの復活を遂げた。 2013年5月よりTOKYO MXにて再放送を行っていた。 各話リスト. ※2002年12月14、21、28日、2003年1月4日、4月5日、6月21日、8月9日は特番のため休止。 特番放送. 2002年12月31日に大みそか傑作選スペシャルが放送された。 特番放送として『クレヨンしんちゃん』や『あたしンち』と合同放送されている。 映像ソフト化. 本編のDVDは2003年4月16日から2004年3月17日にかけて発売。全12巻。 テレビドラマ.
『釣りバカ日誌〜新入社員 浜崎伝助〜』(つりバカにっし しんにゅうしゃいん はまさきでんすけ)のタイトルで、2015年10月23日から12月11日まで毎週金曜日20時 - 20時54分(初回、最終回は2時間スペシャル)に、テレビ東京系の『金曜8時のドラマ』で、濱田岳主演で放送された。連続ドラマ化されるのは今作が初めてとなる。映画版で浜崎伝助(ハマちゃん)を演じた西田敏行が、ドラマ版では鈴木一之助(スーさん)役で出演する。浜崎伝助の新人時代(入社初年度)にスポットライトを当て、時代設定を2015年に変えて描かれるオリジナルストーリーが展開される。なお、映画版の製作・配給を手がけた松竹がドラマ版の制作も担当し、映画版の監督およびチーフ助監督である、朝原雄三と石川勝己がローテーション監督として参加する。なお、ゲストには映画版のレギュラーだった俳優や、他のテレビ東京制作番組の出演者が登場している。 なおこの第1期は2019年10月26日より、BSテレ東で、映画版全作品を放送する「土曜だ!釣りバカ!」(18:30-20:54基本)と連動して、「土曜ドラマ9」として、新たに4Kリマスターリングをしたうえで再放送されている。 2017年1月2日には『YAMADA新春ドラマスペシャル「釣りバカ日誌〜新入社員 浜崎伝助〜 伊勢志摩で大漁! 初めての出張編」』のタイトルで、単発スペシャルドラマとして放送された。 2017年4月21日から6月16日までは第2シリーズが『釣りバカ日誌 Season2〜新米社員 浜崎伝助〜』のタイトルで放送された。 2019年1月4日には単発スペシャル第2弾が、『新春ドラマスペシャル「釣りバカ日誌〜新米社員 浜崎伝助〜瀬戸内海で大漁! 結婚式大パニック編」』のタイトルで放送された。当該回では、原作漫画およびアニメ版や映画版でも描かれなかった「ハマちゃんとみち子の結婚」がオリジナルストーリーで展開された。また、映画版で浜崎みち子を演じた浅田美代子が、本作ではみち子の母役で出演。若年期が濱田岳にそっくりと話題になっていた火野正平が、本作で浜崎伝助の父役で出演し、濱田との初共演が実現した。 作中でみち子が作った料理は放送終了後に料理アプリクックパッドにてレシピを公開している。
六四天安門事件(ろくしてんあんもんじけん)は、1989年6月4日に中華人民共和国・北京市の天安門広場を占拠していた民主化を求めるデモ隊に対し、中国人民解放軍が実力行使し、多数の死傷者を出した事件である。通常、単に「天安門事件」と呼称する場合はこの事件を指すが、四五天安門事件と区別するため「第二次天安門事件」と呼ばれることもある。 解説. 中国の周辺国では、2年前の同時期に台湾の中華民国ではのち民主化前の一歩前進の戒厳令解除や、韓国の光州事件から始まった民主化闘争の末の民主化宣言が立て続けに起こり、東アジアの広範囲で民主化の波が押し寄せていた。 民主化とその成功が勢いづいた波が遅れて到達した中国国内でも若者の民主化運動の高まりが広がり、民主化を求めるデモは、改革派だった胡耀邦元党総書記の死がきっかけとなった。胡耀邦の葬儀までに、政治改革を求める学生を中心に約10万人の人々が天安門広場に集まった。 抗議運動自体は、胡耀邦が死去した1989年4月15日から自然発生的に始まった。抗議の参加者たちは統制がなされておらず、指導者もいなかったが、中には中国共産党の党員、トロツキスト、左派の毛沢東主義者、通常は政府の構造内部の権威主義と経済の変革を要求する声 に反対していた改革派の自由主義者も含まれていた。また、デモへの支援は外国の西側諸国からも行われ、米中央情報局(CIA)は、学生活動家たちの間に情報提供者のネットワークを構築し、反政府運動の形成に積極的な協力を見せ、タイプライターやファックスなどさまざまな機材を提供したとされる。のちに、CIAは英MI6とともに何人かの反体制派指導者の密出国に関与することになる。 デモは最初は天安門広場で、そして広場周辺に集中していたが、のちに上海市を含めた国中の都市に波及していった。鄧小平中軍委主席の決定により5月19日に北京市に戒厳令が布告され、武力介入の可能性が高まったため、趙紫陽総書記や知識人たちは学生たちに対し、デモの平和的解散を促したが、学生たちの投票では強硬派が多数を占め、デモ継続を強行したため首都機能は麻痺に陥った。1989年6月4日未明、中国人民解放軍は兵士と戦車で北京の通りに移動して、デモ隊の鎮圧を開始した。 衝突のあと、中国共産党当局は広範囲に亘って抗議者とその支持者の逮捕を実行し、外国の報道機関を国から締め出し、自国の報道機関に対しては事件の報道を厳格に統制させた。戒厳令布告に反対した趙紫陽は、総書記ほか全役職を解任され、2005年に死去するまで、自宅軟禁下に置かれた。 1989年夏以降、一般に「天安門事件」という場合はこの事件を指す。他の天安門事件、特に1976年4月5日に周恩来総理が死去したときに発生した四五天安門事件(第一次天安門事件)と区別するため「第二次天安門事件」と呼ばれることもある。
略した通称は六四、また中華人民共和国内の検索エンジンにて、「六四天安門事件」というキーワードを検索すると接続不可能になることから、「5月35日(5月31日+4日)」、「VIIV(ローマ数字の6と4を並べたもの)」や、「82(8の2乗を表す数学記法で、その値が64=6月4日)」などを、隠語として使うことがある。「1989年」は「民国78年」、「平成元年」と変換することもある。 抗議者に対する武力弾圧により、中国共産党は国内だけでなく国際社会から痛烈な批判を浴びた。死者数については、中国当局は319人としているが、他国の情報では、数百人から数千人、あるいは1万人にのぼるとするものもある。 事件概要. 「百花斉放・百家争鳴」. 1985年3月にソビエト連邦共産党書記長に就任したミハイル・ゴルバチョフは、「ペレストロイカ」を表明した。これはソビエト共産党による一党独裁制が続く中で、言論の自由への弾圧や思想・良心の自由が阻害されたことや、官僚による腐敗が徐々に進み、硬直化した国家運営を立て直すことが目的であった。ソビエト連邦が民主化を進めるなか、同じく1949年の建国以来、中国共産党の一党独裁下にあった中華人民共和国でも、1986年5月に中国共産党中央委員会総書記の胡耀邦が「百花斉放・百家争鳴」を再提唱して言論の自由化を推進。胡は国民から「開明の指導者」と謳われ、政治改革への期待や支持が高まった。 これに対して鄧小平ら党内の長老グループを中心とした保守派は、「百花斉放・百家争鳴」路線の推進は、中国共産党による一党独裁を揺るがすものであり、ひいては自分たちの地位や利権を損なうものとして反発した。 同年9月に行われた六中全会では、国民からの支持を受けて、胡が押し進めようとした政治改革は棚上げされ、逆に保守派主導の「精神文明決議」が採択され、胡は長老グループや李鵬らの保守派の批判の矢面にさらされた。 12月に、北京他地方都市で学生デモが発生すると保革の対立は激化し、胡は1987年1月16日の政治局拡大会議で、鄧小平ら党内の長老グループや保守派によって辞任を強要され、事実上失脚した。 同月には胡の後任として、改革派ながら穏健派と目された趙紫陽総理が総書記代行に就任、同年11月の第13期1中全会で総書記に選出された。趙には経済・政治の両改革のいずれにも、反自由化の影響が及ばないよう指示を出したが、鄧小平が1988年夏から始めた公定価格制度の廃止が物価上昇を招き、提起者の趙紫陽は、経済の主導権を保守派の李鵬国務院総理(首相)らに渡すことになる。 胡耀邦死去. 胡は失脚後も政治局委員の地位にとどまったが、北京市内の自宅で警察の監視のもと外部との接触を断たれるなど事実上の軟禁生活を送り、1989年4月8日の政治局会議に出席中心筋梗塞で倒れ、4月15日に死去した。 胡が中国の民主化に積極的であったことから、翌16日には中国政法大学を中心とした民主化推進派の学生たちによる胡の追悼集会が行われた。また、これを契機として同日と17日に、同じく民主化推進派の大学生を中心としたグループが北京市内で民主化を求めた集会を行った。
これらの集会はいずれも小規模に行われたが、翌18日には北京の複数の大学の学生を中心とした1万人程度の学生が北京市内でデモを行ったのち、民主化を求めて天安門広場に面する人民大会堂前で座り込みのストライキを始めた。同時に別のグループが中国共産党本部や党要人の邸宅などがある中南海の正門である新華門に集まり、警備隊と小競り合いを起こした。 翌19日には北京市党委員会の機関紙である『北京日報』が批判的に報じたが、4月21日の夜には10万人を越す学生や市民が天安門広場において民主化を求めるデモを行うなど、急激に規模を拡大していった。 翌22日にはデモ隊に「保守派の中心人物の1人」と目された李鵬国務院総理との面会を求めた声明が出されると、文化大革命期に学生たちに痛い目に遭わせられていた八大長老たちはこれを「動乱」として強硬に対処することで一致した。同日午前10時、人民大会堂で胡耀邦同志追悼大会が開催された。 四・二六社説. 学生を中心とした民主化や汚職打倒を求めるデモは、4月22日には西安や長沙、南京などの一部の地方都市にも広がっていったが、全土に広がっていったのは、その後に学生らが天安門広場でカンパを集め始めたころからである。 西安では車両や商店への放火が、武漢では警官隊と学生との衝突が発生した。 趙紫陽は田紀雲らの忠告にもかかわらず、「国外に動揺を見せられない」として北朝鮮への公式訪問を予定通り行うことを決め、李鵬に「追悼会は終わったので学生デモを終わらせる、すぐに授業に戻すこと、暴力、破壊行為には厳しく対応すること、学生たちと各階層で対話を行うこと」とする3項目意見を託した。 しかし、出国してすぐの4月25日、李鵬や李錫銘北京市党委書記、陳希同北京市長ら保守派が事実を誇張した報告を受け、鄧小平の談話を下地に中国中央電視台のニュース番組「新聞聯播」で発表され、続いて翌日の4月26日付の人民日報1面トップに、「旗幟鮮明に動乱に反対せよ」と題された社説(四・二六社説)が掲載された。 北朝鮮訪問前に趙紫陽が示した「3項目意見」は全く反映されず、社説は胡耀邦の追悼を機に全国で起こっている学生たちの活動を「ごく少数の人間が下心を持ち」、「学生を利用して混乱を作り出し」「党と国家指導者を攻撃し」「公然と憲法に違反し、共産党の指導と社会主義制度に反対する」と位置づけたことで学生たちの反感を買い、趙紫陽ら改革派と李鵬ら保守派が対立するきっかけともなった。 上海市の週刊誌である『』は胡耀邦の追悼をテーマとした座談会を開き、その中で参加者が胡の解任を批判したり名誉回復を要求する発言を報じた。校正刷りの段階で内容を把握した上海市は、党委員会書記(当時)の江沢民が宣伝担当の曽慶紅市党委副書記と陳至立市党委宣伝部長に命じ、問題の箇所を削除するよう命令を出した。 社長である欽本立はこの要求を拒否したため、同紙は発行停止となった。前出の四・二六社説発表後に市の党幹部1万人を集めて勉強会を開いた対応と共に評価され、江沢民が党総書記に選ばれる要因となった。
中国共産党は、人民日報や国営テレビなどのメディアを使って事態を沈静化するように国民に呼びかけたものの、『世界経済導報』事件などもあって活動は逆に拡大をみせ、中国共産党は学生だけでなくジャーナリストの反感をも買った。 4月29日午後に、袁木国務院報道官、何東昌国家教育委員会副主任と北京市の幹部が高校生と会見した。李鵬から四・二六社説を擁護するよう指示を受けていた袁木は党内に腐敗があることを認めたものの、「大多数の党幹部はすばらしい」と述べ、『世界経済導報』事件があった直後にもかかわらず「検閲制度など無い」と否定し、「デモは一部の黒幕に操られている」と高姿勢を続けた。この模様が夜に放送されると、学生は抗議デモに繰り出した。 デモの拡大. 趙紫陽は4月30日に北朝鮮から帰国し、翌5月1日の常務委員会で秩序の回復と政治改革のどちらを優先させるかで李鵬首相と対立したが、5月4日の五・四運動70周年記念日までにデモを素早く抑えることで一致した。 五・四運動の70周年記念日である前日5月3日に開かれた式典では、北京の学生・市民ら約10万人が再び民主化を求めるデモと集会を行った。趙紫陽は学生の改革要求を「愛国的」であると評価し、午後からはアジア開発銀行理事総会でも同様に肯定的な発言をした。学生運動終息に期待が持たれ、党内部の評価はまずまずだった。 鄧小平や保守派の長老も歩み寄りを見せたが、5月13日から始まったハンガーストライキが「四・二六社説」から柔軟路線への転換を破綻させた。ゴルバチョフ訪中前に活動を収束させることで鄧、楊尚昆(国家主席)、趙の3人は一致したが、袁木(国務院報道官)ら保守派が送り込んだ政府側代表の尊大な態度に学生側の態度は硬化し、さらに学生側も「四・二六社説」の撤回に固執したためハンガーストライキの終結は困難となった。 この頃全土から天安門広場に集まる学生や労働者などのデモ隊の数は50万人近くになり、公安(警察)による規制は効かなくなり、天安門広場は次第に市民が意見を自由に発表できる場へと変貌していった。併せてイギリスの植民地であった香港、日本やアメリカ合衆国などの諸外国に留学した学生による国外での支援活動も活発化していった。 この民主化運動の指導者は、漢民族出身の大学生である王丹や柴玲、ウイグル族出身のウーアルカイシ(吾爾開希)などで、5月18日午前に李鵬、李鉄映、閻明復、陳希同らが彼らと会見した。まず李鵬が「会見の目的はハンストを終わらせる方法を考えることだ」と発言すると、ウーアルカイシは「実質的な話し合いをしたい。我々は李鵬を招待したのであって、議題は我々が決める」と反論した。 学生側は「学生運動を愛国的なものとすること」と、「学生と指導者の対話を生放送で放送すること」を要求したが、李鵬は「この場で答えることは適当ではないし、2つの条件はハンスト終結と関連付けるべきではない」と話し、会見は物別れに終わった。李鵬を激しく非難する姿が全世界にテレビにより流されたことで注目を集めることとなった。 ゴルバチョフ訪中.
このような状況下で、5月15日には「改革派」として世界的に知られ、ソビエト国内の改革を進めていたミハイル・ゴルバチョフ書記長が、冷戦時代の1950年代より続いていた中ソ対立の終結を表明するために、当初の予定通り北京を公式訪問した。 中国共産党は、ゴルバチョフと鄧小平ら共産党首脳部との会談を通じて中ソ関係の正常化を確認することで、「中ソ間の雪解け」を世界に向けて発信しようとして綿密に受け入れ準備を進めていたが、天安門広場をはじめとする北京市内の要所要所が民主化を求めるデモ隊で溢れており、当局による交通規制を行うことが不可能な状況になっていた。 このため、ゴルバチョフ一行の市内の移動にさえ支障を来したばかりか、天安門広場での歓迎式典が中止されるなど、多くの公式行事が中止になったり開催場所を変更しておこなわれることとなった。 ゴルバチョフと会見に臨んだ趙紫陽は当日、人民大会堂での会見で記者を前に、「最終決定権が鄧小平にある」ことを明かしたが、学生たちの矛先を鄧小平に向けたとして、第13期4中全会で「罪状」に数えられることとなった。 外国メディアの報道の多くは、自国の民主化を進めるゴルバチョフの訪中と、中国における一連の民主化運動を絡めたものになった。また、この訪中を受けて両国間の関係が正常化されることとなったものの、デモ隊の多くがゴルバチョフを「改革派の一員」「民主主義の大使」として歓迎する一幕 が報道されるなど、結果的には中国共産党のメンツが完全に潰される結果になった。 ゴルバチョフは、この様な結果になることを予想してあえて訪中時期を変更せず、また中国共産党もゴルバチョフの訪中予定日をあえて変更しないことで、長年対立してきたソ連に対するメンツを保つとともに、国内の「平静」を内外にアピールしようとした狙いがあったと言われている。ゴルバチョフは、当初の予定通り5月17日に北京首都国際空港から帰国した。 戒厳令布告. この頃の中国共産党指導部は、保守派の長老によって総書記の座に選ばれたものの、民主化を求める学生らの意見に同情的な態度を取った改革派の趙紫陽総書記や胡啓立書記などと、李鵬首相や姚依林副首相らの強硬派に分かれたが、5月17日にゴルバチョフが北京を離れるまでの間は、この様な事態に対して事を荒立てるような政治的な動きを見せなかった。 5月16日夜、趙紫陽、李鵬、胡啓立、喬石、姚依林の5人の政治局常務委員会が開かれ、学生たちの要求する「四・二六社説」の修正について話し合われ、趙紫陽は修正に賛成、李鵬は反対したため、決着しなかった。 5月17日午後に改めて、党長老で事実上の最高権力者である鄧小平中軍委主席に加え楊尚昆国家主席を含めた会議が鄧小平の自宅で行われたところ、戒厳令の布告について趙紫陽と胡啓立が反対、李鵬と姚依林が賛成、喬石が中立の意見を表明し、5人の政治局常務委員会は割れた。 政治局常務委員ではない楊尚昆が賛成を表明した後、政治局常務委員会による投票をすることなく、鄧小平は以下のように発言し戒厳令の布告を決定した。 これに対し、趙紫陽は以下のように述べ、戒厳令の発動を拒否したため、鄧小平は李鵬、楊尚昆、喬石の3人を戒厳令実施の責任者に任命した。
5月19日午前5時頃、趙紫陽は当時党中央弁公庁主任を務めていた温家宝を連れて、ハンガーストライキを続ける学生を見舞う中で涙を見せ、学生たちの愛国精神を褒め称え、「諸君はまだ若いのだから命を粗末にしてはいけない」と、迫りつつあった流血の惨事を避けるために、学生たちにハンストの中止を促したが、学生たちには真意が十分に伝わらなかった。 しかし、趙紫陽の演説は学生たちに歓迎され、拍手は止まなかった。5月20日、鄧小平は自宅で非公式会合を開き、趙紫陽の解任を事実上決定した。その後、6月19日の政治局拡大会議で「動乱を支持し、党を分裂させた」として、趙紫陽は党内外の全役職を解任され自宅軟禁下に置かれ、これ以降政治の表舞台から姿を消した。 5月19日午後10時、党中央、国務院が中央と北京市党政軍幹部大会を開き、戒厳令布告の発表を行った。党中央、全人代、国務院、中央軍事委員会、中央顧問委員会、中央紀律検査委員会、全国政協と北京市の副部長級の幹部および、党中央弁公庁、国務院弁公庁の局長クラスが出席した。趙紫陽は「体調不良」により欠席することが大会を主催する喬石から伝えられ、趙紫陽に割り振られていた講話は楊尚昆国家主席が担当した。まず李錫銘北京市党委書記が北京市の状況を説明し、続いて李鵬が戒厳令の必要性を訴える講話を行った。 これ以降は保守派によって戒厳令体制の強化が行われることになったものの、23日には戒厳令布告に抗議するために北京市内で100万人規模のデモが行われるなど、事態は沈静化しないばかりか益々拡大して行く。また、政府による戒厳令の布告を受けて、日本やフランスをはじめとする多くの西側諸国の政府は、自国民の国外脱出を促すようになった。 こうした中、カナダを訪問中の全人代常務委員長の万里が、「改革を促す愛国行動」と学生運動を評した発言を5月17日付けで新華社が報じたことで、学生たちだけでなく社会全体に希望が生まれた。全人代常務委員らが万里の出国前に6月20日前後となっていた常務委員会の繰上げ開催に奔走し、李鵬解任要求や戒厳令反対の機運が高まりかけたものの、万里自身は北京には戻らず「病気療養」のため上海に入り、江沢民を説得役として変心させた。 2日後、万里は党中央の決定に対し一転して「支持」を表明する。 武力介入が避けられない状況となったことで、知識人らは学生たちに撤収を促したものの、地方から集結した強硬派が多数を占めた学生側の話し合いで反対票が9割を超えたため、撤収は不可能となった。 5月30日には、天安門広場の中心に、ニューヨーク市の「自由の女神」を模した「民主の女神」像が北京美術学院の学生によって作られ、その後この像は、民主化活動のシンボルとして世界中のメディアで取り上げられた。また、この頃香港や中華民国(台湾)、アメリカ合衆国など、国外の華僑による民主化推進派支援の活動が活発になっていた。 報道管制. 戒厳令の布告を受けて厳しい報道管制が敷かれ、日本やイギリス、西ドイツなどの西側諸国のテレビ局による生中継のための回線は中国共産党によって次々と遮断されていたものの、アメリカ合衆国の CNN は、依然として世界各国へ向けた生中継を続けていた。
これに業を煮やした中国共産党の上層部は、CNNが生放送を行っていた最中に現場に係官と警察官を派遣して、放送を中止するよう要求したが、テレビカメラが回り続けていたために、特派員のバーナード・ショーらCNNのスタッフと係員のやり取りも、そのまま生中継され、中国共産党による報道管制の実態が世界中に発信された。 なおその後の西側メディアによる報道は、主にビデオテープ収録による録画中継と、固定電話や公衆電話を使用した、音声による生中継によって行われるようになった。また、民主化推進派が香港や台湾など、国外の民主化推進派の支援者やメディアに対して、ファクシミリを使って、北京市内や政府内部の状況を逐一報告していたといわれている。 武力弾圧. 6月に入ると、地方から続々と人民解放軍の部隊が北京に集結していることが西側のメディアによって報じられたこともあり、人民解放軍による武力弾圧が近いとの噂が国内だけでなく外国のメディアによっても報じられるようになる。 実際に6月3日の夜遅くには、天安門広場の周辺に人民解放軍の装甲兵員輸送車が集結し始め、完全武装した兵士が配置に着いたことが西側の外交官や報道陣によって確認された。 その後6月3日の夜中から6月4日未明にかけて、戒厳令実施の責任者である李鵬首相の指示によって、人民解放軍の装甲車を含む完全武装された部隊が、天安門広場を中心にした民主化要求をする大学生を中心とした民衆に対して投入された。 現地取材していた加藤青延によれば、6月3日には下記のようなことが起きていた。 複数の外国メディアや大使館からの公電によれば、解放軍の進行は一旦は数で勝る民衆によって阻止されたものの、その後これらの部隊は中国共産党首脳部の命令に忠実に、市街地で民衆に対して無差別に発砲したと伝えられた。 この際に、中国人民解放軍のトラックは、事前に民衆に襲撃されており、武器や弾薬の一部が奪われていた。現場で取材していたNHK記者の加藤青延(後、NHK専門解説委員)が侯徳健から聞いたところ、軍が労働者のデモ隊に対して発砲し、それに対して「友達を殺すのか!」と激怒した労働者たちが逆襲して軍から武器を奪ったのだという。加藤によれば、武器を運ぶトラックは兵士たちとは別に運行されており、デモ隊がトラックの運転手と格闘して武器を奪うことがあった。現場に居た四君子の一人であるの証言によると、当時の天安門広場には、鉄パイプ、火炎瓶、ライフル1丁、機関銃1丁があった。その高新は六カ月間にわたって拘留され、その間に太陽を見ることができたのは一度だけだった。現場で取材していた朝日新聞社の外報部記者永持裕紀のように「学生たちはジュースの空き瓶や叩くとペシャリとなりそうな竹の棒くらいしか持っていない」と言っているものもおり、民衆の武装状態は証言により甚だ差がある。労働者デモ隊が奪ってきた武器は侯徳健・劉暁波たちが「こんなものは私達の戦いには必要がない」と言って外国メディアの前で武器を破壊してしまった。 根強く残る懐疑論. 横浜市立大学名誉教授の矢吹晋は、1989年12月4日の『読売新聞』夕刊上で天安門広場での虐殺は不確かな噂やデマに基づく誤報だと指摘した。一晩中現場に居たスペイン国営テレビの極東支局特派員ファン・レストレポ記者も同じく、本国のマドリードに送ったテープが恣意的に編集され、広場での虐殺という歪んだ事実が報道されてしまったと述べている。
しかし、大量の虐殺が広場でなかったとはいえ広場での数名の死者や多くの重軽傷者、そして広場以外で少なくとも300人以上が殺害されたと言う欧米側の記録がある。天安門広場で取材していた前述の永持も「天安門広場は新中国の中心も中心。そこを血で染めるようなことは流石にせず、虐殺は広場の他の地域の北京市街で多く行われた」と証言しており、天安門広場以外では軍が民衆に対して攻撃を行っていたことは複数の証言がある。 広場へ続く道路での武力鎮圧は数時間続き、6月4日未明以降も天安門広場に残った民衆の一部は、最終的に人民解放軍の説得に応じて広場から退去した。現場で取材していた加藤が後に侯徳健から聞いた話では、状況は以下のごとくであった。 また、スペインの放送局が撮影した映像によると、学生を含む民衆に対して軍からの退去命令は行われていたが、多くの学生を含む民衆はまだ広場に残っていた。 なお、学生運動のリーダー達の一部は、武力突入前にからくも現場から撤収し、支援者らの手引により中国国外へ亡命した。1995年に製作されたアメリカのドキュメンタリー映画「天安門THE GATE OF HEAVENLY PEACE」の中で、学生側リーダーの柴玲はインタビューに対し、「流血を期待していた()。中国共産党政府を追い詰めて人民を虐殺させなければ、民衆は目覚めない。」と発言した。現場に居なかった柴玲は広場で戦車が学生を押しつぶしたと泣きながら証言したが、最後まで現場に残って学生が脱出するためのトラックを手配していた侯徳健(台湾から亡命してきた有名作曲家)は、広場では虐殺は起きなかったと証言している。また、学生側リーダーの一人だったウーアルカイシも広場で千人が殺されたと証言したが、侯徳健や加藤青延によれば死者は数名だったという。 なお、これは前述のごとく、天安門広場での死者は出なかったが、周辺では多数の死者が出たという認識が正しいと思われる。なお、加藤は死傷者数については政府発表では319人だが、民衆の間では「100万人が殺された」と信じられていたという。政府発表ですらズレが有り、加藤はおそらく民衆の噂の死者数は過大であり、1990年の中国公安省の報告の「死者523人、負傷者11570人、政府側の軍・警察の負傷者6240人」というのがおそらく真実に近いのではないかとしている。 武力鎮圧の模様は、イギリスのBBCや香港の亜洲電視、アメリカのCNNを始めとする、中国国内外のテレビ局によって世界中に中継された。その映像は無差別発砲による市民の虐殺と看做され、世界中から多くの非難が中国政府に浴びせられた。
武力鎮圧のために進行する中国人民解放軍の戦車の前に1人の若者が飛び出して戦車の進路方向の前に立ち、その戦車の走行を阻止しようとした男性「無名の反逆者」の映像も放映された( - 戦車男)。ただし、この事件は外国メディアの眼の前でわざわざ行われ、男性はデモ隊が叫んでいたスローガンを叫ばずに終始無言であるなど不思議なものであった。戦車男を目撃したNHK記者の加藤青延は「服装が政府側の人物のように見え、戦車が人を引かないことをアピールするための自作自演の中国政府の行動であろう」としている。加藤の取材によればこれは6月5日に隣接する長安街の外国取材陣の前でおきた出来事である。男性は身元不明だがデモ隊ではなく中国政府側の人間だと思われる。中国政府の自作自演で「戦車は民衆を引かないよ」というパフォーマンスとして行われたものである。加藤は中国政府の宣伝担当者から「戦車が人を引かないということが重要なのですよ」という話を聞いている。6月4日に「デモ隊が中国政府中枢部の中南海を襲う、中南海が危ない」という司令を受けた人民解放軍が中南海前のデモ隊に戦車が突っ込み、民衆を轢き殺してしまい、11人死亡、両足切断の重傷者2名を出していた。これは民衆の間では「戦車に1万人もの民衆が轢き殺されたそうだ」というデマになって広まっていた。そのデマを鎮めるためにおこなったものだろうと加藤は考えている。 また、AFP通信によると、2014年6月に機密解除されたアメリカ合衆国連邦政府の公文書の中に、当時の天安門広場の様子を目撃したとされる匿名の人物の話が記載されている。それによれば、楊尚昆の甥が指揮した、河北省石家庄から招集された第27集団軍(北京軍区所属)に属する非北京語話者の兵士たちは、「人々の集まりに遭遇すると、それが誰であろうとも笑いながら無差別に発砲していた」と、武力弾圧が多くの死者を出すことを意図した「残虐」なものだったと主張した内容だった。しかし公開された機密文書の原文では、この匿名の情報提供者は事件発生当時は現場でなく北京市内のホテルの一室に滞在しており、第27集団軍の虐殺行為に関する一連の情報は「確認の取れない噂」であるとしている。また、当時現場付近に居たワシントンポストの北京支局長ジェイ・マシューズは、 「何百人もの外国人ジャーナリストは天安門とは別の地域か、或いは天安門広場から離れたホテルに避難していたので、広場中央での様子を目撃する事は出来なかった」 と指摘している。マシューズは広場での虐殺についても、 「ウーアルカイシは銃撃で200名の学生が倒れたと言うが、彼は既に数時間前に現場から脱出していた。伝聞や噂ではなく現場からの確かな証言から判断すれば、広場では誰も死んでおらず広場に通じる道路で散発的な死者が出た」と述べている。
天安門事件を取材したジャーナリストの相馬勝は、天安門広場の付近の路地を通る途中、広場から逃げてきたという眼鏡をかけた血まみれの学生が市民を前にして、「奴らは3歳の赤ん坊を撃ったんだ。同級生の女子学生をいま病院に送ってきたところだ。彼女は死んだ。血だらけになって…。同級生のなかには体を吹き飛ばされた者もいる。奴らは鬼だ」と涙ながらに訴えているのを目撃した(この学生の白いワイシャツは赤い血で染まっていたという)。相馬がその学生の言葉をメモに残してから天安門広場へと進む途中、相馬の姿を見た中年の男性から「お前は日本人の記者か?」と話しかけられた。男性は茫然自失した様子で、「軍が撃った。こんなことは許されない。中国はもう終わりだ。鄧小平を許さない」と語ったという。 事件当時、鄧小平は「20万人ぐらいの血の犠牲はかまわない。中国では100万人といえども小さな数にすぎない」「中国に西欧的民主主義を持ち込めば、国内は混乱し、難民が周辺地域に何億人も流出するだろう」と述べたと伝えられている。 アメリカの人権組織である「アジア・ウォッチ」のリサーチ・ディレクターであるロビン・マンローは、9月23日の香港『サウス・チャイナ・モーニング・ポスト』紙に、自分自身が広場に最後まで居残り、そして学生とともに撤退していった様子について、 「そこにはパニックを示すようなものはなく、なにか虐殺が起こったことを示すような微かな兆候さえもなかった」 と語っている。マンローは広場ではなく他の場所で起きた虐殺に注目すべきだと問題提起している。 死傷者. 中国共産党の公式発表では、「動乱で319人が死亡(民間人と軍、警察の合計)」となっているが、この事件による死傷者については、上記の中国共産党による報道規制により、客観的な確定が不可能であり、数百人から数万人に及ぶなど、複数の説があり、死者数は定かではない。 は自らの著書の中で、天安門広場から完全にデモ隊が放逐された後に、人民解放軍の手によって死体が集められ、その場で焼却されたと述べている。また、約300名の民主活動家がパリに亡命した。 1989年6月4日に作成され1999年6月1日に公開された米外交公電では、現場に居た市民が感情的に怒って「天安門広場で10000人が殺された」と主張した事を報告している。 1989年6月5日に作成され、2017年12月23日に機密解除された英国政府の公文書では、「最低に見積もっても一般市民の死者は10000人以上が中国軍により殺害された。」と報告している。公文書は当時の駐中国アラン・ドナルド英大使()が6月5日に本国政府へ送った外交機密電報である。
ドナルド大使によると、「中華人民共和国国務院委員を務める親しい友人から聞いた」情報であり、この情報源とされる人物を事件以前から信頼しており、「事実と憶測と噂を慎重に区別」して書いたという。文書には「鎮圧にあたったのは山西省を主力とする第27軍」「1時間の退去期限を通告したが、実際には5分後にはAPC(装甲兵員輸送車)による攻撃が始まりひき殺され、大多数は広場から離れる途中で犠牲に遭った」「学生たちは腕を組んで対抗しようとしたが、兵士たちを含めてひき殺されてしまった。そしてAPCは何度も何度も遺体をひき、『パイ』を作り、ブルドーザーが遺体を集めていった。遺体は焼却され、ホースで排水溝に流されていった」「負傷した女子学生4人が命乞いをしたが、中国軍に銃剣で刺されてしまった」と記載されている。フランス人の中国研究家も、最近機密解除された米国の文書も類似した死者数を割り出しており、当時の英大使によるこの推定値には信憑性があると述べている。しかし、中国系英字メディアサイト"SupChina"の編集者アンソニー・タオ(Anthony Yixing Tao)は、2017年12月に自社サイトの記事において「10000人という数字は匿名の、しかも米国側の発表した情報だけが根拠であって信用出来ない」と反論を述べている。 クレア・バーリンスキーは、ソ連の公文書に収められているソ連共産党政治局が受け取った情報報告では3000人の抗議者が殺されたと見積もられていると述べている。 1989年6月22日に作成され1999年6月1日に公開された米外交公電は、それまでの混乱した情報を整理する目的で時系列で記述されており、銃撃の主な被害は従来の報告とは違って広場ではなく広場に続く道路で発生したとしている。死亡者数は当初の予測であった3000人を下回る可能性が高く、中国赤十字の発表である死者2600人が妥当な数字としている。ただし、当時の天安門事件に関する報道でピューリッツァー賞を受賞したニコラス・クリストフによれば、2600という数字は行方不明になった学生が2600人居るという噂が死亡した学生の数だと勘違いされて出来た根拠の無い数字であり、中国紅十字会は2600という数字を即座に撤回しているとされている。 1989年7月に作成され2011年6月に公開された米外交公電によれば、広場に進行した兵士の大部分は銃ではなく暴徒鎮圧用の木の棒の様な物で武装しており、群衆に向けた大量発砲は見られなかったとされる。現場に居たチリの外交官は広場で大規模な銃撃は無かったと証言している。これは兵士が非武装の市民がいる広場に突撃したという複数の記者の証言と矛盾するし、死者の数は1000人を遥かに下回る事を示唆している。
1989年7月12日に作成され2011年8月30日に公開された米外交公電によれば、現場に居たチリの外交官であるカルロス・ガロの証言では広場に入った兵士は棍棒で武装しており大規模な発砲は起きなかったとしている。広場にゆっくりと入って行った装甲車が広場のテントを踏みつける頃にはテントは既に無人だった様に見えた。学生が撤収した後の広場に人民解放軍のヘリコプターが降りてきて大きなプラスチックの袋を上に引っ張り上げていたが、彼はその中身が負傷者や遺体ではなくゴミだと思った。彼は大規模な銃撃を目撃しなかったが、広場に負傷者が大勢集まって来た事から人民解放軍によって数百人が殺害された事に疑いは無いと判断した。 1990年3月26日に作成されウィキリークスが2011年8月に公開した米外交公電には、現場で鎮圧にあたった人民解放軍38軍に所属した兵士の母親とされる人物による匿名での証言が記載されている。彼女の証言によれば、38軍は当初は空中に威嚇射撃をしていたが、学生の襲撃を受けて仲間の兵士が数百人も行方不明になったか、或いはおそらく殺害されたという情報が部隊に伝わると38軍の兵士達は興奮した。その状況で出された発砲命令に従い群衆に向け機銃掃射を行い、1000人以上の市民が殺害された。兵士は死体にガソリンを掛けて燃やし、その死体をヘリコプターで運び去ったという。一連の証言について公電作成者は文末で、「彼女の証言が伝聞とは思わないが、時間が経過しており相当な誇張が含まれる」「我々には目撃情報が少なく誇張された天安門の情報が循環している」とコメントしている。 2019年5月29日、当時在中華人民共和国日本国大使館にて情報収集を統括していた笠原直樹1等陸佐(防衛駐在官) による詳細なメモが残っていたことが分かった。それによると、死傷者数は不明であるが、「実弾発射はほぼ間違いない」、「解放軍による射撃にて市民が逃げ出す」、「戦車が射撃しながら天安門広場に突入し、広場にいた学生を一掃」など書かれており、血まみれで倒れる女性の姿、APC(装甲兵員輸送車)にてひき殺されたり、一斉発砲する兵士など当時の流血の北京の状況が判明した。
中国出身の政治学者である朱建栄は、天安門事件は人民解放軍の出動途中に起こった発砲事件に過ぎず、虐殺はなかったと主張している。また、日本の歴史学者である村田忠禧も「実際には89年6月の天安門広場では『残虐な殺戮』とか『虐殺』と称すべき事態は発生しなかった」「89年の中国の学生運動を一面的に美化することは問題である。そもそも自分たちの要求を実現させるために『ハンスト』という、生命を武器にして相手に譲歩を迫る方法は、とても民主的手続きを踏んだものではない。生命を武器に相手に自分たちの条件を飲ませる方法であって、一種の脅迫である」「文革期にも行われた極左行動に他ならない。それを『平和的』『理性的』な行動であった、と持ち上げるのは、あまりに『お人好し』な評価といえる」と主張している。また、大西広は天安門事件における中国政府の対応を「現在われわれが考え直さなければならないことは、鄧小平の決断によるあの弾圧がなければ現在の中国の経済発展はない、というおそらく厳然たる事実である。……あのときの鄧小平の決断は『冷酷』ではあっても正しいものであった。そして、このことはまさに『この国に最終的な責任をもつ』ということが鄧小平にはできて、われわれにはできなかったということを示している」と礼賛する発言を行っている。 国内における反応. 批判. 事件後、中国共産党によって民主化活動の中心的存在の1人と目された王丹などの「反体制派」と目される人物に対する一斉検挙が行われた。そのような中で、「中国のサハロフ」と呼ばれる物理学者の方励之夫妻がアメリカ大使館に駆け込み、政治亡命を申請した(その後亡命)ほか、ウーアルカイシや柴玲などの民主化活動の中心人物が香港などを経由して西側諸国へ亡命した。 また、中国共産党首脳部の強硬派が密かに行った自国民の虐殺に対する批判が行われ、批判ビラの配布や、香港や中華民国、アメリカなどの国外の支援者を経由した事件時の隠し撮り写真の流出が行われた。 中国中央電視台のニュース番組「新聞聯播」の司会者である薛飛と杜憲は、喪服をイメージさせる服装で6月4日の放送に臨んだ。訃報を伝えるような速度でニュース原稿を読み、抗議を表したという。杜憲は1992年に中央電視台を退社し、2000年から香港のフェニックステレビでアナウンサー業を再開させている。 中国共産党による監視統制. 上記の様に、西側諸国だけでなく、東側諸国を含む世界各国では、この事件は報道されたものの、国内においては、事件後には、平常時にも増して情報統制が強化されたため、事件に対する詳細な報道はほとんど行われなくなった。 2024年時点でも、以下のような当局ぐるみでの当事件の情報操作が行われている。 そのため、本件以降に学校教育を受けた世代は、事実をほとんど知らないとも報じられている、しかしながら、留学や過剰な検閲によりかえって若者が天安門事件を知ったり、政府当局による隠蔽や弾圧体質に気づくなどしているケースもある。なお、日本ではその厳しい検閲を逆手に取り、天安門事件関連の言葉を加えることで、自作した作品の中国からの無断転載対策を行う者もいる。 当事件の結果、中華人民共和国国内の民主化運動は一気に下火となるが、本件で中国共産党に失望して決別した活動家は多く、石平を始めとした活動家が、中華人民共和国外で活動を続けることになる。なお、その後石平は日本に帰化している。天安門事件以降、天安門広場には顔認識が可能な大量の監視カメラが設置され、活動家は音声認識による盗聴やDNA収集で徹底的に追跡と特定を行われている。
最終的に事態を掌握した強硬派と、その一派がその後現在に至るまで実権を握り続けているために、中国共産党によるこの事件に対する反省や謝罪の姿勢の表明だけでなく、この事件に対する検証報道は、これまで一切行われておらず、中国共産党政府最大のタブーの一つでもある 。中華人民共和国国防部部長の遅浩田は、1996年にアメリカ合衆国を訪れた際に、「天安門広場では1人も殺されなかった」と発言して、世界各国から反発を受けた。事件から30周年を迎えた2019年6月には国営の環球時報は「ワクチンとして将来どんな政治的動揺にも対処できる免疫力を中国に与えた」と事件に言及する異例の論説を発表し、中国国防部部長の魏鳳和も訪問先のシンガポールで「騒乱を治めるために正しい対応をした。中国は安定と発展を享受している」と異例の言及を行った。 2021年発刊の『党史』は、天安門事件の犠牲者には言及せず、「制裁した各国に闘争を挑み、日本に率先して制裁を取り消させた」と記しており、『読売新聞』は「歴史を自らに都合良く解釈する姿勢の表れと言える」と評している。 世界の反応. イギリス領香港の反応. この事件に対して最も早く反応したのは、その住人の大半が華僑で、中華人民共和国への「返還」を8年後に控えたイギリス領香港である。このような非民主主義的な行為をする中国共産党に対して、抗議デモが起こった。 1989年6月5日には、香港のほぼすべての学校や企業、政府機関が公式に譴責・哀悼を行っている。たとえば学校では、小学校なども含め校長や教師が泣きじゃくりながら声明を読み上げ、学生を率いて黙祷をしている。テレビやラジオ、新聞、雑誌などのメディアもこれを報道している。おそらく中国共産党に打撃を与えるためか、6月5日の早朝に、香港全土にある中国銀行グループの各銀行から、一日のうちに50億香港ドルが引き出されている。また後述のように香港市民に海外移住者が増え、香港企業も海外に本社を移転する動きも出た。 同日に香港の議会が、武力鎮圧に対する譴責を全会一致で採択。その宣言は中国への「返還」後の今でも撤回しておらず有効であり、香港と中国共産党の基本的な政治思想の差を示している。なお、事件を契機に、香港市民支援愛国民主運動連合会(支連会)が結成され、今なお中華圏最大の民主化運動組織として活動しており、1997年に香港がイギリスより中国へ返還後も、同組織によって事件で犠牲になった学生らを悼む集会が、毎年香港島のヴィクトリアパークで開催、2007年6月4日には5万5千人の参加者を集めた。2012年6月4日、約18万人の参加者を集めて歴年の記録を破った。 また、この事件を受けて、香港人のイギリス・カナダ・オーストラリアなどのイギリス連邦諸国や、アメリカ合衆国などへの移住ブームに火がついた。その後、宗主国のイギリスと中華人民共和国の間で結ばれた「返還後50年間は現状維持」という一国二制度により、政治的に安定していた香港を評価して、多くの移民が香港に戻った。
だがこの事件は、1997年以降の香港憲法にあたる、香港基本法の起草委員の多くが委員を辞退したことや、「全国人民代表大会」の香港代表が「六四事件が香港の人々の心を大きく傷つけた」と発言したことなどが象徴するような、現在の香港人の中国共産党に対する不信感の原点とも言われる。この影響で2008年の北京オリンピックの聖火リレーでも中国共産党への抗議活動が起きている。 また事件当日から6日にかけて明報やなどの香港メディアは情報が錯綜したことから、「軍同士の衝突が起きた」、「鄧小平氏の死亡」などの様々な未確認情報を報道した。 なお、香港では2020年9月の新学期以降の高校の必修教科書から、天安門事件など中国共産党にとって都合の悪い項目が削除されることになった。これは一国二制度に基づき、自由と民主主義が根付いている香港の歴史と文化を否定することで、中国共産党の価値観を植え付けて香港の若者が反政府活動に傾く土壌を排除する思惑があるとみられる。 中華民国(台湾)の反応. 中華民国総統の李登輝は6月4日の夜に、「中国共産党の非人道性は必ず歴史に裁かれる。中国共産党が武力を行使して民主化運動を弾圧したことに抗議するため、私は中華民国政府と人民を代表し、最も悲痛な思いで、自由を愛し、人権を重視する世界中のすべての国と人々に、中国共産党の残虐行為を最も厳しい方法で非難し、中国にいる同胞にあらゆる支援を提供し、中国共産党と完全に決別するよう呼びかけたい」との声明を出した。中華民国国防部は同日、「休息を中断して国防に復帰し、国軍の全将校と兵士は戦争準備と派兵に入ること」を命じた。 中華民国行政院は中国民主化運動を支援するため、中華人民共和国旅券を手放した外国人留学生や学者に対して中華民国旅券を発給し、授業料や生活費を支給するなどの4つの特別措置を発表した。1989年6月7日、中華民国行政院長の、の宋楚瑜、中華民国立法委員の、中国人権協会の杭立武らが台北の国立国父紀念館前で追悼の意を表した。 野党民主進歩党の林義雄らが、学生による中国民主化運動を支援し、今年の選挙に向けて党勢を高めるため、300時間のハンガー・ストライキを開始した。 4社(、ロックレコード、、ポリグラム)の100人以上の歌手が『』をレコーディングした。 国際社会の反応. 民主主義国である西側諸国の政府が次々と、事件における中国共産党による武力弾圧についての声明を発表した。アメリカ、イギリス、フランス、西ドイツを含む各国は、武器を持たぬ市民を手当たり次第に大虐殺した蛮行に対して譴責あるいは抗議を発表し、G7による対中首脳会議の停止、武器輸出の禁止、世界銀行による中国への融資の停止などの外交制裁を実施した。 1989年6月4日の武力制圧後の国内情勢が安定的でないことから、日本をはじめとした西側の外国企業が一時的に中華人民共和国から社員を引き上げる事態に至る。事件後、日本では外務報道官談話や官房長官談話を発表して、この流血事件に対する事態の悪化防止を中華人民共和国政府に求めた。加えて6月20日にODAによる対中経済援助の凍結を発表し、翌1990年から予定される「第3次円借款」並びに「中日友好環境保全センターの建設」など一部の対中ODAを保留とする見直しが行われた。
同年7月の第15回先進国首脳会議(アルシュ・サミット)では、議長国フランスをはじめとした西側諸国が残虐行為を厳しく非難した。日本の宇野宗佑内閣総理大臣は対中円借款を凍結する一方で、外務大臣の三塚博と共に「中国の孤立はさせない」とサミットで主張 して他の西側諸国と距離を置き、サミット前にも対中制裁反対派の中曽根康弘元総理、鈴木善幸元総理、竹下登前総理と会談した。日本が中国孤立化に強く反対した背景には対中貿易を重視している経済界の要請やサミット直後に第15回参議院議員通常選挙が控えているにもかかわらず、当時の宇野内閣は総理の女性スキャンダル発覚で窮地に陥っており、サミットを政権浮揚に利用したい首相官邸の卑劣かつ軽率極まりない思惑もあったとされる。実際に宇野は対中非難声明の素案に記述されていた「中国における野蛮な鎮圧」に難色を示し、その結果「激しい抑圧」に修正され、「中国当局が孤立化を避け、協力関係への復帰をもたらす条件をつくり出すよう期待する」との一文も加筆されたことが後年(2020年)の外務省外交文書の公開により明らかになっている。総理退任後の1990年5月7日に宇野が訪中した際にも中華人民共和国の江沢民から、このサミットでの対応に感謝されている。 1989年7月21日、アメリカのジョージ・H・W・ブッシュ大統領は鄧小平に送った書簡で「親愛なる鄧小平殿。先日のサミットの先進国首脳会議の共同宣言の草案には中国を過度に非難する文言がありましたが、アメリカと日本が取り除きました。米議会は中国との経済関係を断ち切ることを求めていますが、私は波風を立てないよう全力を尽くします。今は厳しい時期ですが米中は世界の平和と両国の繁栄の為共に前進しましょう」と述べていた。 1990年7月の第16回先進国首脳会議では、日本の海部俊樹総理が対中円借款の再開に言及、国内・西側諸国共に多様な議論がある中で、西側の現職政府首脳として事件後初めて同年8月に訪中した。また、1992年8月に中華人民共和国政府の要請を受け、10月に宮沢内閣が「天皇皇后両陛下の中国御訪問」を閣議決定、同月に天皇皇后夫妻が中国を訪問し、西側各国で国際ニュースとなる。 天安門に集まる一般市民を最初は非難していたシンガポールのリー・クアンユーは、武器を持たない一般市民の騒動に対しては最低限の治安目的の対応を期待していたため、「今回の中国共産党の対応に衝撃を受けるとともに悲しみを受けた」とニューヨーク・タイムズ紙のインタビューに応えた。 1997年に江沢民の訪米が実現し、1998年6月には民主党のビル・クリントン大統領が訪中。米国をはじめとする各国も時期をおいて中華人民共和国との外交関係の回復を行っていった。しかし、この事件が中国共産党による一党独裁とその異常性を示す例であるとして、その後の西側諸国を中心とする諸外国における同国の評価を下げる、大きな原因の1つとなった。
2007年6月1日、アメリカ合衆国国務省副報道官のトム・ケーシーが、「民主化運動(六四天安門事件)に参加した」ことを理由に現在も身柄を拘束されている人々を釈放し、併せて事件の再調査を行うように中国共産党政府に要請した。また、2009年6月3日にアメリカのヒラリー・クリントン国務長官は、中国共産党政府に「過去の事件を検証し、死者や行方不明者についての報告を行うように」と要求し、事件の検証や拘束中の人権活動家を釈放するよう求めた。 2019年5月30日、アメリカ国務省のオルタガス報道官は記者会見にて、間もなく30周年を迎える中国の天安門事件について「徹底した虐殺行為だった。罪のない命が失われた痛ましい事実を忘れない。抗議参加者や遺族らへの弾圧がいまだ続いている」と批判した。4日、アメリカのマイク・ポンペオ国務長官も天安門事件を批判したこともあわせて、中国外務省の耿爽報道官は「先生気取りで民主や人権を掲げて他国に内政干渉しているバカな人間のゴミ山の戯言」と猛反発して「中国は発展した。政府の当時の行動は完全に正しかった」と事件を正当化した。 中華人民共和国と同じ東側諸国の東ドイツ、北朝鮮、チェコスロバキア、キューバ、ルーマニアや友好国のパキスタンと多数のアフリカ諸国が中国共産党による武力弾圧を支持した。例外的に、同じ社会主義国でも領土問題などで中国と緊張関係にあったベトナムは事件を報道するも直接コメントしなかった。フィリピンは事件に遺憾の意を表明した。 指名手配された21名の中心人物. 中華人民共和国政府より指名手配されたものは21人。うち、亡命生活を送っているのは14人いる。 劉暁波のノーベル平和賞受賞. 2010年10月8日、劉暁波のノーベル平和賞受賞が発表された。ノルウェー・ノーベル委員会は、劉暁波の受賞理由は「中国における基本的人権のために長年、非暴力的な闘いをしてきた」ことであると発表した。また、劉暁波への授与の決定は「有罪確定時の今年2月には不可避の状況になっていた」こと、「選考は全会一致であった」ことなどであると発表した。劉暁波は、「この受賞は天安門事件で犠牲になった人々の魂に贈られたものだ」と語り、涙を流したとされる。 国外への影響. アフリカのリビアで起こった2011年の騒乱では、カダフィ大佐が「天安門広場では、戦車によって人々が蹂躙されて中国の統一が保たれた。国家の統一のためならどんなこともする」と述べ、反体制派に対する虐殺と民主化の弾圧などを正当化した。 それに対し、中華人民共和国外交部は困惑するも「リビアができるだけ早く社会の安定と正常な秩序を回復するよう強く希望する」として、カダフィの発言については批判しなかった。なお、当時の中国は首都トリポリとカダフィ大佐の故郷スルトを結ぶ鉄道の建設などリビアで複数の権益を抱え、内戦を受けて軍艦や輸送機などを派遣して中国人労働者3万人をリビアから退避させており、中国国内ではアラブの春に影響された中国ジャスミン革命も起き、中国政府にはカダフィ政権への武器供与疑惑も追及されていた。
『スーパードンキーコング』(')は、1994年にイギリスのレアが開発、日本の任天堂が発売したスーパーファミコン用横スクロールアクションゲーム。日本では1994年(平成6年)11月26日に発売された。日本国外でのタイトルは。キャッチコピーは「デジタルゴリラ出現!!」。 概要. 任天堂のアーケードゲーム『ドンキーコング』(1981年)を元に、レア社が独自で開発したゲーム。ディレクターはティム・スタンパー、音楽はデヴィッド・ワイズ、イーブリン・フィッシャー、ロビン・ビーンランドが担当している。ゲーム内容は、主人公「ドンキー」を操作し、クレムリン軍に奪われたバナナを取り戻すことを目的としている。 1997年に日本国内ではニンテンドウパワー対応ソフトとして発売された他、2000年にはリメイクされ日本ではゲームボーイカラー用ソフト『ドンキーコング2001』(ドンキーコングにせんいち)として発売、さらに2003年にはゲームボーイアドバンス用ソフトとして移植版が発売された。 スーパーファミコン版は2006年にWii用ソフトとして、2014年にはWii U用ソフトとして、2016年にはNewニンテンドー3DS用ソフトとしてそれぞれバーチャルコンソールにて配信された。 スーパーファミコン版はゲーム誌『ファミコン通信』の「クロスレビュー」にてシルバー殿堂入りを獲得した他、日本国内での売上本数はスーパーファミコン用ソフトとしては歴代第4位を記録した。 本項では、本作を元に製作されたゲームボーイ用ソフト『スーパードンキーコングGB』(スーパードンキーコングジービー、以下『GB』)、SFC版のリメイク作『ドンキーコング2001』(以下『2001』)、ゲームボーイアドバンス版での移植バージョン(以下GBA版)についても扱う。なお、『GB』の日本国外のタイトルは“""”である。 元祖ドンキーコングの孫である新世代のドンキーコングが登場した初の作品。当時最新の3DCGを用いている。 ゲーム内容. ゲームモード. SFC版には3つのモードがある。 システム. 基本は横スクロールのアクションゲームで、待ち受ける敵を倒したり避けたりしながら、ステージの最後にあるゴール(「EXIT」と書かれた看板のある出口)にたどり着けばステージクリアになる(ボスステージではボスとの対決のみが行なわれ、倒すとクリアになる)。コースは6つの「レベル」に分かれ、1レベルあたりそれぞれ5-6のステージとボスステージで構成されている。ステージの分岐という概念はなく、順番にこなしていく必要がある。ただし、一度クリアしたステージは何度でもプレイすることができる。 操作できるキャラクターはドンキーコング及びディディーコングの2種類であるが、一度に同時操作はできず、常に一方のキャラクターを操作することになる。両者には性能差があり、ドンキーはより頑丈な敵を倒すことが可能で、ディディーは素早さとジャンプ力に優れている。状況に応じて操作キャラクターの交代が可能で、活用することで有利に進めることができる。
敵やトラップからダメージを受けた場合、コングが2人いる場合は操作中のキャラが逃げ出してもう片方のコングに自動的に交代する(GBA版では逃げ出すのでなく画面外に落ちてもう1人のコングと交代する。GBC版『ドンキーコング2001』ではコングが2人いても2人で進行せず、パートナーは左下のアイコンで控える。)。コングが1人しかいない場合および谷底に落下した場合やトリックトラックリフトが落下されて足場で置き去りにされた場合はミスとなり、残機となるライフが1減る。本作では残機を「ライフ」と表現しており、他のゲームに見られる「ライフ=体力」の構図とは異なる(これは本作に限らずレア社のゲームにたびたび見られる「ライフ=命の数」という構図である)。いなくなったパートナーはDK印のタル(DKバレル)を破壊することで復帰可能で、SFC版ではコングが2匹いる状態になってもDK バレルを取ることが可能だったが、続編・GBC版『ドンキーコング2001』とGBA版ではコングが2匹いる状態になるとDKバレルを取ることはできず、投げても意味がない(ただし、武器として使うことは可能)。 ライフはドンキーコングのバルーンでカウントされ、ライフが0になってからミスをするとゲームオーバーとなる。SFC版では、一部の裏技を使用しない限り原則的にコンティニュー機能はなく、セーブはステージマップ上にあるセーブポイントで行うことができるが、レベルによってはセーブポイント(後述)が後半部分に設けられていることがあるため、セーブできない区間の攻略に注意を要することもある。GBC版『ドンキーコング2001』ではオートセーブのため、セーブできない区間に注意する必要が無くなった。ゲームオーバーになってもコンティニューバレルの破壊にかかわらず同ステージの最初からになるだけである。GBA版では、マップ画面で任意にセーブができるようになる。ライフはセーブにかかわらず電源を付けた地点で5からスタートだが、GBA版ではセーブでライフの数も引き継げるようになった。 ステージによっては味方キャラ(アニマルフレンド/後述)がいる場合があり、コンテナを壊して跳び乗るとアニマルフレンドを操作できる(一部操作できない者もいる)。アニマルフレンドに乗っている間は、操作方法もアニマルフレンドのものに変更され、それぞれ独自の能力を活用して攻略することが可能だが、他のステージには持ち越せない。SFC版とGBA版では、アニマルフレンドはダメージを受けると高速で逃げ出すが、谷底に落ちるなどして見失わない限りは乗り直せば再び利用できる。GBC版『ドンキーコング2001』ではコングがアニマルフレンドに変身を行う。そのためダメージを受けるとそこでアニマルフレンドの操作は終了になり、一度コングに交代するとアニマルフレンドに戻すことはできない。 基本アクション. ここではSFC版に則った操作方法を説明する。 ただし、全ての敵に同じ攻撃手段が通じるわけではなく、一部の攻撃は効かなかったり、そればかりか逆にコング側がダメージを受けるケースもある。 ゲーム進行には特に影響はないが、しばらく何も操作しないでいるとキャラクターがポーズをとる。また、ボーナスステージのミニゲームに成功したときや失敗したときにもそれぞれにポーズをとる。 マップ画面.
このゲームには「全体マップ」と「レベル内のマップ」の2種類のマップ画面がある。全30以上あるコースは、おおむね5-6コースをひとまとめにした「レベル(『スーパーマリオブラザーズ』などで言うところのワールド)」で区切られており、レベルの最後にはボスとの対決をするコースがあり、倒すことで次のレベルに進める。クリア済みのコースやレベルを訪問することも自由にできるが、「全体マップからレベル内マップに入る」ことは自由にできる反面、「レベル内マップから全体マップに出る(=レベル間を移動する)」ことには制約があり、その方法は「ファンキーコングの小屋を利用する」「ボスを倒す」のどちらか。それぞれのレベル内にはコングファミリーの施設も個別に設置されており、レベル内の攻略具合に応じて利用できるようになる。 マップ上のレベルやコースには顔のアイコンが表示されており、クレムリン(ワニ)の顔が描かれているならばまだクリアされておらず、コングの顔が描かれているならばクリアしたことになる(ドンキー・ディディーのどちらの顔になるかは、最初にクリアした方のコングとなる)。コングファミリーの施設には、そのコングの顔のアイコンが常時表示されている。ステージ名の末尾に「!」が付くと、そのステージを完全クリア(ボーナスステージ全制覇およびコースクリア)していることを示す(GBC版『ドンキーコング2001』ではステージ名が赤色になる。)。レベル内の全てのコースを完全クリアすると、レベル名の末尾にも「!」マークが付く。 ボーナスステージ. ステージ内の数か所にある隠し部屋。一部のステージやボスとの対決を除くほとんどのステージにあり、アイテムの宝庫になっていることが多い。特定の壁を壊して入る(最初から入口が開いていることもある)・特定のタル大砲を使うなどの方法で行くことができる。見落としやすい場所に入口がある場合、不自然な場所に置かれたバナナが目印になっていることも多い。 中にはミニゲーム形式でアイテム取得に挑戦するタイプもあり、ダメージを受けたりミニゲームに失敗するとアイテムを得られず外に追い出されるが、ボーナスステージ内の結果にかかわらず「ボーナスステージを発見した扱い」に変わりはなく、ゲーム全体の攻略の度合いを示す「達成率」に加算される(アニマルトークンを集めて入れるボーナスステージは達成率に加算されない)。また、ボーナスステージ内でダメージを受けたり谷底に落ちても、パートナーを失ったりミスになることはない。 画面表示. ライフ数(SFC版の取扱説明書では「ライフカウンター」と呼んでいる。)や集めたアイテムの数は画面に常に表示されない。ライフ数やバナナ数は、ステージ開始時・増減時に数秒間だけ表示される。普段はゲーム画面しか表示されないため、非常にすっきりした画面構成になっている。プレイヤーの意思で任意にライフ数などを確認することはできないため、ライフ数などは自分で覚えておくことが望ましい。 アイテム類. 中には、通常はその場に見えておらず、特定の条件を満たした場合のみその場に出現する、隠しアイテムも存在する。 ミニゲーム. GBC版「ドンキーコング2001」とGBA版では本編・ボーナスステージとは別にミニゲーム(ボーナスゲーム)が追加された。いずれも本編とは別にメニュー画面から選ぶことができるが、GBA版ではステージ道中のファンキーコング・キャンディーコングの部屋からも遊ぶことができる。 ファンキーフィッシング. GBC版「ドンキーコング2001」とGBA版の両方に収録。エンガードに乗ったドンキーを操作し、釣り竿で海中の魚を釣っていく。
釣り糸は上下のみ、エンガードは左右にのみ動かすことができる。釣り糸には移動に伴う慣性がかかっており、必ずしもドンキーの真下に釣り糸があるわけではない。Aボタンで釣り糸を一気に引き上げて釣り上げる。このときに道中で釣り針に引っかかった魚は全て獲得対象となる。 ただし、海上にはエンガードと別にボートが存在し(GBA版ではディディーが乗っている)、引き上げた勢いで空中に上がり落ちてくる釣り針がボートに触れないと獲得したことにならない。ボートの移動は完全にランダムであるため、釣り針の落下地点を予測する必要がある。魚を獲得すると制限時間がプラスされる。 GBC版「ドンキーコング2001」では1ステージのみ、GBA版では6つのワールドを模した6ステージが存在する(最初から全てのステージが解放済み)し、後半のステージほど難易度が高い。GBA版の各ステージにはノルマが存在し、ファンキーの部屋から選んで遊んだ際に達成するとライフバルーンがもらえる。また、GBA版では隠し要素の写真にも関係している。 キャンディーのダンススタジオ. GBA版にのみ収録。いわゆる音楽ゲーム形式のゲームで、左から右に流れてくるレーン上の指示に合わせて正しいタイミングでボタンを押していく。 流れてくるボタンは十字キーの上下左右、A・B・L・Rボタンの8種類で、後半のステージに進むにつれ使用するボタンの種類が増えていく。判定は高い順に「PERFECT」「HIT」「MISS」の3種類。レーンの中央に判定基準を示す枠が存在し、こことの位置のズレで判定が変わる。音楽とレーン上のタイミングはかなり差があり(レーンの方が遅れてやって来る)、音楽に合わせて操作をしていくとMISSになりやすい。また、ミニゲームの制約上、四分音符より細かいボタン操作は要求されない。 ワールド毎に1ステージずつ、全6ステージが存在する。ステージ道中のキャンディーの部屋から挑戦した際には、PERFECT達成率が8割以上であるとライフバルーンをもらえる。ファンキーフィッシングと同じく、これも隠し要素の写真と関連している。 ちなみに、この6ステージで使われる音楽はすべてこのミニゲームのためだけに作られたオリジナル曲である。 クランキーのミニゲーム. GBC版「ドンキーコング2001」にのみ存在するミニゲーム。6種類存在するが、細かい違いを除けば実質することは全てモグラたたきと同じ要領である。 ステージ上にはカーソルが合わせられる場所が複数存在し、指示に従ってAボタンでココナッツを撃って正しいアクションをする。ココナッツは連続で最大4発しか撃てず、弾切れになったときにはBボタンで補給(リロード)する。 設定. ストーリー. ドンキーの家の真下にあるバナナ倉庫にはたくさんのバナナが貯蔵されている。 ある日、ドンキーはその見張り役をディディーに任せるもその日に限って、悪名高いクレムリン軍が、前々から計画していたバナナ泥棒計画を実行に移す日であった。 大量のクレムリン部隊に囲まれたディディーは、得意の横トンボ返りで応戦するも、大群であったがためについに捕らえられ、タルに入れられた挙句にジャングルの奥地に放り捨てられてしまった。 翌日ドンキーは、クランキーの大きな声で目を覚ます。そしてクランキーが指示するままにバナナ倉庫を見に行くと、バナナは全て盗まれていた。 クレムリン軍の仕業であることを見抜いたドンキーはディディーを助け、バナナを取り返す冒険に出かけるのであった。 ステージ構成.
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